2010年06月30日

需要不足

今の日本のデフレ化は需要不足という話を良く聞く。

という事は供給を減らせば良いという事ではないかとも思うのだがそうすると仕事を減らす事になる。

この供給過多となる位にハイテク化が進み仕事の効率化が図られているという事はイイ事ではないのかと思うのだが世の中は暗い感じになっている。景気不安である。

此は明らかにおかしい。供給過多など意味不明すぎるのだ。

何の為に効率化を図っているのだろうか?明らかに金銭的理由だけに動いているのだ。世の中を快適にするという視点など皆無な状態で社会が動いているという事を表しているのである。

仕事量(同じモノを一つ作る時間という考えで、どうぞよろしく)で考えればドンドン減っているのではないだろうか。メール、宅配便等が無かった時代に比べると速度は数倍になっているのでは無いだろうか。その分仕事が増えては駄目なのだ。それでは人はいつまで経っても楽になれないのである。

昔より10倍の生産量が増えたのならばそれで浮いた時間を有効に付くべきだ。仕事に使うのは阿呆のやる事である。

という事は今の世界は阿呆の集まりという事だね。

しかし此が今の経済システムのせいで上手く動かないのである。

そんな不完全な経済システムで頂点に立つお山の大将。そして其のシステムに翻弄されている。

自分の作ったモノにコントロールされるなど馬鹿丸出しである。

此処まで書いていて思う。人類は仕事が好きなのではないか。休みを楽しむ為に仕事が無いと駄目な体になっているのだ。殆ど休みになると暇を持てあますのだろう。

仕事が無いと人に頼られない不安があるのだろう。仕事がある為に社会の一部という実感を感じているのだろう。

実際には余暇社会になったとしてもそれはそれで新たなる役割が出来るのだけどね。ただ今と明らかに違うから想像出来ないだけで。





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2010年06月29日

他人の目

他人の目を気にするなとかいう人いますよね。確かにそれを気にしすぎて自分のやりたい事が出来ないようになりストレスを貯め愚痴が多くなるのは精神衛生上あまりよろしくない。

そして自分が考えているほど他人は興味も感心も持っていない。

町を歩いていて、電車に乗っていて、ラーメン屋で其処にいる客の事など憶えていないし(まぁ何か事件があったり、感情を動かす様な客の場合は別だけど)、また知り合いと一緒にいても自分に関係ない会話の内容などそんなに憶えていない筈だ。

その程度の感心しか無いという事だ、其処で自意識過剰に反応しても仕方の無い事なのだ。以前にも同じ様な事を書いているけどきっと此処に書かれている事など記憶の片隅または忘却の彼方に行っているだろうから無問題。

だがそんなに感心が無いからといって全く気にしないのも問題である。

もう少し世の中自分中心で考えるのは止めた方がいいと思える人達がいる。

自分がされたら嫌と思う様な事を何も考えずに行なうという事は止めた方がいい。

他人の目を意識する事で自分の行動を客観視するのだ。自分を監視する自分の目が必要なのだ。

人は油断するし、中々自分の行動を客観視出来ない、嘘付いていると意識している時でもない限り、自分の行動に間違いないと思いがちである。

でも大体間違っている。

まぁ実際には間違っているというより他の方法を吟味していないというのが実情か。多分もう少し落ち着いて考えればよりベストな行動が出来る事があるという感じか。



世の中の人はもう少し自己嫌悪するべきなのだ。

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2010年06月28日

エアーズロックでストリップ

この記事を読んで思う事は他の文化に敬意も何も無い独善的な正義を感じる。

他人の文化などどうでもイイのだ自分の都合のイイ解釈でお前らもそう考えろよ。という傲慢。

誰もかも自分の正義を押しつける。此が自由というモノか?権利というモノなのか?自分の正義を人に押しつけるというのは自分に自信が無いという事の裏返しではないかとも思う。

正義なんてモノは自分の心の指針でしかないのだ。

この記事の言い分で馬鹿かと思う事がある。「アボリジニは昔は裸で住んでた」という部分だ。そんな事を言い出したら世界中何処でも裸で住んでいた時代があるはずだ。また裸で住んでいた事と聖地に入り込む事とは実際の所関係ない。あたかも裸になる事で敬意を払っているという勘違い具合がタチが悪い。

素晴らしい平和と自由の感覚とか頭の悪い発言をみてもこのストリップをした者が馬鹿でデリカシーのない自己中心な奴という事は丸わかりだ。

こんな連中が自分達が世界の中心と思い込んでいるのだ。そんな世界など糞食らえだ。

誰もが自分が世界の中心だと思い込むのは問題ない。だがドカドカと土足でそれに踏み込んでくるのは傲慢というモノだ。

誰にも踏み込まれたくないモノが有る筈なのだ。それこそが人が最後に逃げ込む場所なのだ。




確かに世界の土地、誰かのモノという概念自体がおかしいともいえるけどね・・・・







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2010年06月27日

世界

個から家族、家族から町、町から市、市から県、県から地方、地方から国、国から世界という意識の拡張をしていく世界市民というあやふやなモノを目指す。

しかしあまりにも漠然とし、世界市民としてやるべき事という部分がわからない為に個人主義に陥っている。

みんなを守るという事は誰も守らないのと同じになり結局は個人主義に陥るのである。

まさに馬鹿丸出し。

もしかすると国、家族という関係性の濃密さが嫌な人達が世界市民という概念を叫んでいるのではないだろうか。そして勝手な想像だがこれを叫んでいるのは左巻の人で日本が嫌いな人だと思う。そしてこの人達が考える世界にはアフリカとか南米、イスラム社会とかは入っていないと思う。

僕は考える人類が世界市民になる為にはそれに対するモノが出てこない限り無理ではないかと思う。宇宙人とかが来ない限り無理では無いだろうか。地球の価値観という明確な線引きを考える為の相対化の価値が来ないと無理な気がする。

人間は絶対的価値などわからないのだ、相対的価値でしか判断出来ないのである。誰かが基準を作り其処から価値を発生させているだけなのだ。まぁ価値自体がその程度のモノでしかないとも言える。

宇宙人来ないとすると世界の人間が9割方死ぬ様な天変地異が起きる位の事がない限り無理だと思う。第二次世界大戦程度では人類は何も変わる事は無かった。一時的に戦争に嫌気がさしただけだ。

そもそも相性的に合うかどうかわからない、思想的に違う、生活環境も違う者達を安易に混ぜていいモノではない。色々と軋轢を生むのだ。

混ぜるにしても少しずつ混ぜ、安定したらまた少しだけ混ぜるというやり方をしないと駄目である。

でも以前も書いた事だが世界が混ぜ合さり一つになる事は良い事とは僕は思えない。むしろ色々な可能性を潰し駄目だと思う。

違うと言う事を認識し、丁度いい距離感を保つというのがイイと思う。控えめな関係性である。

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2010年06月26日

女子高生ゾンビ

ゾンビも女子高生、それを狩る方も女子高生、事件に巻き込まれるのも女子高生という女子高生三昧なゾンビ映画。

話のガイドライン的には「ラスト・ブラッド」と同じ感じ。

でも此方の方が完成度は圧倒的に低いのだがいい感じである。微妙な日常に潜む闇、その境界に足を突っ込んだ感じがどことなくあるのだ。

問題点は女子高生がそれっぽく見えない点だろう。もう少し若く見えるキャスティングで固めればいいのにと思う。これは低予算だからなのか?あまりにも微妙すぎるのである、今一つ華もないし。

また映像があまりにも薄っぺらである。家庭用ハイビジョンカメラで撮って、映像効果で無理矢理コントラストを上げた感じの為に変にエッジに黒が乗った感じで非常に汚いのである。奥行き感がないし闇の深さが出ていないのである。

暗いシーンが多いのだそれをちゃんと撮らないとやはり駄目だと思う。映像をいじってスタイリッシュにしたいのかもしれないけど元の映像が駄目ではそうなる前に破綻した小汚い映像になってしまうのである。

音声も台詞を喋る時だけノイズレベルも上がるという状態で非常に気になる。音に一体感が無いのである。

西村映像とAKB48辺りでこんな映画作ればいいのにと思う。そんなに出来は良くないし演技も酷いのがだが「マジすか学園」には時代的勢いのある魅力があったと思う。あのノリをゾンビ映画に入れるのだ。多分海外には作れない作品になる筈だ。血塗れAKBだ!!













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2010年06月25日

人間に正しい判断は可能か?

人間は真にニュートラルに物事を見て、聞いて、判断する事は可能なのだろうか?

多分無理では無いだろうか。

そもそも人間にニュートラル状態という認識が出来ないのだ。生まれてからずっと色々な偏向された状況で人格形跡も判断基準も作られているのである。

人間が思うニュートラルな状態自体がもう曲がっているのである。

だから頭の良いと言われる人でも、人類でも間違った判断を度々するのである。

多分人間に正しい判断が出来るのは科学的に数値、観測結果等で表せるモノだけだと思う。まぁ此にしても変な思い込みから間違った解釈をしてしまう事もある。後で問題が出た時に気がつくけど。

でもよくよく考えるとニュートラルががわからないという事もそうだが、人間には正解もわからないのだ。此が正しい答えだと人間には判断出来ないのだ。その時点では正しいと思ってはいても100年後、200年後と時間がたつと其処での選択こそが原因だったともいえる事は多々ある筈だ。

結局はその場で自己満足する程度の判断が出来れば上等という事なのだろう。

自分の判断のifを考えていけばキリがないのである。どちらも正解であり間違いかもしれない。

更にニュートラルな状態で判断すれば正しい答えが出るというのも幻想である。情報が少ない状態では隠れている部分を想像する事で人は判断している。情報が集まるまで待っていたら手遅れになる場合もあるのである。

問題点の解決過程で別の問題が生じていくのである。

まぁその場のノリと勢いを少しだけ抑えて考える程度の事しか出来ないのが実情だろう。
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2010年06月24日

グローバルを望む気持

グローバルスタンダードだと声高にいう人達この人達はその先に何を見ているのだろうか?世界が一つのルールで効率的に動き、能力のある者は評価される合理的社会が誕生するとでも思っているのだろうか?

それとも日本が世界から遅れていくという恐怖感から言っているのだろうか?多分此は違うと思う。説得する為の方便としては言うかもしれないけれど。

でっ、通勤中にふと閃いた。

多分グローバルスタンダードだよと言う者はそうなれば自分は成功出来ると考えているのではないだろうか、今成功していないのは、そこそこ成功していても伸び悩みしているのは日本流が足かせになっているという考えがあるのではないだろうか。自分の才能はこんなモノではないという変な自意識過剰がある様な気がするのだ。日本は僕を正しく評価しないという変な被害妄想がある様な気がする。

逆に反対する者には世界規模になれば食いっぱぐれるという恐怖感があるのだろう。まあそれだけじゃないけどね。

でも何故ジャパンスタンダードを世界標準化しようと企むどてらい奴は出てこないのだろうか?大変な事はわかるがコンピューターのOSと同じで自分の所の規格を標準化するのが金儲けとして考えたら一番だと思うのだが。

大体オリンピックとかF1でも日本が勝ちだすとルールを変えると言われたりする世界なのだ、自分の所のルールを標準化しないといつまで経ってもババを引く事になるのだ。

そもそもグローバルスタンダードといっているがどれ位の国がそのルールで動いているのか?

日本人思っているほど標準化していないのではないか?

日本はかなり良い国です。馬鹿でものびのび生きていけるし。政治家が駄目でもそこそこ国が動いていくという。治安もそこそこ。

それにメシも美味い。


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2010年06月23日

出稼ぎ社会到来

日本企業の外国人採用枠の増加と、英語等の外国語をしゃべれる事といったグローバル化といった変化。

このグローバル化が進むと今に仕事場は世界的になるのだろう。

そして工場は中国、金融はアメリカとかという感じで国単位で仕事の住み分けが進みそれにより住む場所が決まる様になるのだろう。

大人になると生まれた場所を捨て自分の能力等により住む国(仕事)を選択する事になるのだろう。そして世界がごちゃ混ぜになるのだ。

でも多分それは長く続かない。それぞれの国出の教育(収入)の格差により固定化されていく。そして工場国で生まれた人間は死ぬまで工場、農業国で生まれた人間は死ぬまで農業というようになっていくのだ。

そして格差のピラミッドが完成し、安定化していくのである。そこから抜け出すのは大変である。その国に色々なモノがない状況だと狭い視野になるし、ステップアップしようにも国内に転職先が無い状況では難しいだろう。

まぁそれしか見えない状況になれば自分がどういう立場なのかわからないままかもしれない。それはそれで余計な考えをせずに幸せかもしれない。


お金が国境を破壊し、国家のあり方を変えるのである。利益を上げる為という目的の為にはコミュニティなど無用なのである。国家という小コミュニティがより利益を生み出すのに最適とならない限りこれは進んでいく。

政治家から企業経営者に国家の運営権は移っているのである。金で政治家もマスコミも動かせれば世論は動かせるのである。

大多数の人は企業で働いているしね此もまた世論を操るのに最適である。

そして企業経営者は国を動かしてはいるが国家の事など考えていないのである。利益が出るか否かなのだ。

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2010年06月22日

ラスト・ブラッド

アニメの実写映画化モノ。

出来はふーーーんな感じ。あまりにも微妙な出来に脱力する事間違いなし。まぁ元のアニメにしてもストーリーが激面白いというモノではない。ハイクオリティなアニメだったというのが評価の部分だと思う。

そのクオリティのストーリー的なモノを何処かで観た様な映像の詰め合わせで作られても刺激はない。最後の戦いも派手さもインパクトも無くあっさりしており物足りないのである。

また変身した化け物が非常によろしくない。何かもこもこした筋肉質で非常にダサイ。

それにしても血糊のCGは見た目に派手かもしれないし、絵的にコントロールし易いのかもしれないがイマイチである。あれだけ派手に血しぶきが出るのであれば血塗れにならないと駄目だと思う。血塗れの中で凛と立つ姿が必要なのである。

吹き出た血は周りを汚すのだ、それこそが死の匂いである。ポップさの中に痛さと匂いが必要だと僕は思う。

小雪の見た目は良い感じなのだがキャラとしてのインパクトも薄い、話的に殆ど適当な扱いなのだ。もっとイイ台詞とかでキャラを立たせ、背景をもっと足すべきだと思う。敵が弱いという事は主人公も弱くなるのである。相対する価値が低くては駄目なのである。

という位色々とヌルイ作品です。酒でも飲みながら真剣に観ないというの良い見方だと思う。






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2010年06月21日

炊飯男子に格下婚

ドンドン新しいレッテルをはりビジネスにしていく。

コレが成立するのは自分が今どの様な状況にあるのかというのがわからないという不安があるのではないだろうか。

人生のGPSみたなものではないかと僕は考える。

自分の立ち位置がわからないと不安に成るという状況が今起きているのだ。自分の説明書というのもコレを防ぐ為のモノなのだろう。

コレの原因としてコミニケーションの密度、濃度の低下があるのではないか。

人は自分だけでは自分を確立出来ない。コレまではコミニケーションがそれを可能にした。この世界での位置を漠然と知る事が出来たの、それは自分の思い込みという事もあるのだが自分の形をかたどる為には十分だったのだ。

でも今はそれが無くなったのではないだろうか。これはコミニケーションが無くなったという実感というより此等の本が出る事からの推理である。

またもう一つの考え方としてこれらの新しいレッテル言葉出来る事で自分の現状のネガティブな状況を肯定してくれるという事が安心に繋がっているのではないだろうか。

格下婚なんか悪く言うとヒモを養っているみたいなモノではないのか?また残り物の駄目男子を囲っているというと自分が惨めに思える部分、理想ととは違うけどしょうがないというのを納得させるというモノではないのか。

また炊飯男子にしても会社で御飯を炊くというやりすぎ感もこの言葉を作り経済観やおいしさ感で此もありだよね。会社もこれ位認める度量を見せないと今の会社として恥ずかしいよね。と思い込ませているのではないか。

チョイと前の草食男子にしても本物の草食男子はどれ程いるのだろうか?と疑問に思う。本当は口説きたい、エロい事もしたいと思っているのにそれをする勇気がない事を誤魔化す隠れ簑に使っていないだろうか。

そのレッテルに入る事で自分の行動指針が決まるのは楽なのだ。それでいて肯定までしてくれるのだこんな良い事はない。

だからこそビジネスになるのだ。

累計パターンからそれに合うレッテル名を決める。厳密にはその累計パターンは現実に添っていなくてもよい、ある種のパターンを作り読む人が勝手に思い当たる様に書けばいいのだ。読んだ人間に自分とはそんなモノのなのだと思い込む様になればその様に行動する。それだけの事でビジネスになるのだ。時代の変化による新規パターンがあれば更にそれは良いモノとなるだろう。
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2010年06月20日

ノウイング

みんな大好きニコラス・ケイジのまた奇妙な映画。

実に惜しい感じがする。好みの方向性なのだが色々な謎解き等が緩いし、ラストのオチにいたる為の行為が実にいただけない。

超越者の行為が納得がいかないのである。あの回りくどい行為に意味があるのかといいたい。キリスト教に詳しいとアレに意味を見出す事が出来るのだろうか?

ただのディザスター物ではなくサスペンスがあり面白い雰囲気があるだけに実に惜しいのである。


父と子の別れにしても別れに対する理由が希薄な為になんか感動しなよという感じで取って付けな感じにしか思えないのである。

神のメッセージは常に溢れている、だが人間はそれに気が付くことなく怠惰に生きている。世界の事を知っていると思い込み傲慢になっている。また神の痕跡に気が付いたとしてもそれでは人は救えない。そして其処に危機が近づいた、いや危機はもう目の前に見えているのに其処でも悔い改める事もないという。その救い用の無い人間は神の業火で焼かれる事でしか救いはない。

というような宗教観の映画です。

でもこの映画のイヤな部分にこの地球の支配者が人間という感じがなんか嫌。他の動物達も人間と一緒に滅ぼされるというのが物凄くムカツクのである。人間だけが死滅するのならばイイのにね。まぁ直接手は出していない、太陽フレアで滅びる訳だからねという逃げでは駄目だと思う。


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2010年06月19日

上下と方向

上から目線で人を上か下かで判断する人の視点を客観的にみると彼等の視点には方向性がないと思える。

自分の方向性だけが正しく他の方向性は正しく無いと判断するのである。彼等かみると違う方向性で評価された者に価値は無いのである。

彼等の価値感は円で考えるとわかりやすい。

彼等の価値観は中心から真上に伸びている。水平より下の人間は何処までその道を究めたとしても評価される事はない。水平より上だとしても水平に近い角度だと物凄くその道を極めないと上になる事は無いのである。

彼等は中心からの距離で物事をみていないのである。自分の方向だけをみて上か下かを見ているのである。自分の方向性だけが正しいという自負が物凄いのだ。その絶対性を信じているし世の中もそうだ思っているのである。(この文章はわかり難い)


たとえそれでしくじったとしても自分の考えをわからない周りのスタッフが自分の考えを正しく理解しなかったせいで緩みがあったと考えるのである。失敗は他人のせいなのだ。

ここで自分の失敗を認める事が出来る人間は救いがある。だが上から目線を出したい人はそれを認めない。自分と関わりある人に対しては常に上に立ちたいのである。(なんて上から目線なんだ!! そうか僕こそが上から目線だったとは目からウロコ)


確かに凄い自信は必要なモノかもしれないが他の道の可能性を考えないの駄目では無いだろうか。自信をもってその道を極めるというのと他の道を否定するのは違うのである。




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2010年06月18日

小沢健二 極秘結婚

小沢健二が昨年末に米国人女性と極秘結婚・入籍し・・・という記事をみて思った。

タレントは一々私生活を発表しないと駄目なの?別に隠すつもりが無いにしても発表しなければ駄目な雰囲気を極秘という言葉から受けるのは気のせいだろうか?

タレントはFAX、メールとかで結婚しましたとマスコミ、関係各位に連絡しているのだろうか?

まぁ変な記事を書かれたりするのを防ぐ為だったり、宣伝になると思えれば発表するものかもしれないけどね。

しかしこれが微妙な立ち位置のタレントの場合はどうだろうか?変に連絡しても誰だっけ?と思われたり、自意識過剰じゃないと思われたらコレはコレで以上に気まずいのでは無いだろうか。

何だろうこの極秘に内包するマスコミの上から目線加減、何様のつもりなのだろうか。

それともコレは小沢健二ライブ活動再開を後方支援する為に仕組まれたモノなのだろうか。MCのネタにも出来そうだしね。

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2010年06月17日

中の上

コンピューターツールが良くなると中の上が増えるという仮説。

絵にしても音楽にしてもツールの力によりそれなりのモノが出来てしまうという状況。確かに埋もれていた才能がコレにより湧き出る事もあるが大多数は凡才である。ただ分母が大きくなるから埋もれていた才能がポコポコいる様に思えるだけ。

しかし中の上でもコレは十分に商品になる。数は出ないにしても発表コストが下がれば十分に商品になるのである。

また上に立つモノにとって都合が良い。自分で中の上が作れれば人を雇わなくても良いのだ。それまでツールが不便だった時は自分では中の上作れない為に多少不満が有っても中の上の人間仕事を振らなければならなかったのだ。

そのストレスから解放されるのだ。また自分で作った思い通りのモノは本来は中の中程度だったとしも自分の思い通りのモノがかけた場合上の下位に感じるのである。特上レベルのモノであ無いかぎり自分の作ったモノの方が良くみえるのである。

この何でも出来るという才能の勘違いが更に中の上を産み出していく。

そして元々中の上だった人間は仕事が無くなっていく。頑張ってきたモノが瓦解するのである。まぁ元々コンピュータソフトに置き換える事の出来る能力の部分が才能を押し上げていたのだから仕方が無いのかもしれない。

色々な技能が機械に置き換えられあぶれた人がそこかしこにいるのが今の失業者ではないだろうか。自分の能力を生かす事が出来なくなった者が喪失感と共に苛ついているのである。

今の所管理職は置き換えられていないから自分の才能が凄い勘違いの元になっているのである。

溢れる中の上の作品群にマスクされ本物の才能も埋もれていくだろう。それに慣らされたモノの審美眼も凡庸になりセンスが低下するのでは無いかという気もする。発表までのハードルが高い分だけ色々と磨かれるのではないかと思う。

全てが中の上のモノでは人は感動も何もない。其処にあるのは一時は楽しむ為の記憶にも殆ど残らない消費財だけである。

きっと今にワープロソフトでそれなりの小説とかエッセイとかがいい文章が書ける名文機能とかが付くに違いない。


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2010年06月16日

アダルトビデオ道

ネットで借りて自宅に届くDMMでDVDを楽しんでいるのだが成人向けの検索の所のタグが物凄い。

僕が初めてアダルトビデオを観た当時と比べると物凄い細分化である。

何処まで細分化して行くのだろうか?

しかしこの細分化の状況をみるとこれもまた道を極めようとするこだわりの精神なのではないだろうか。人間のエロ映像に関する追求の結果がいずれアダルトビデオ道として完成すると僕は考える。

それにしても深すぎる。

海外のアダルトビデオもココまでの細分化が有るのだろうか?何となくであるが無い様に思えるのだが。ドイツ辺りだとSMとかのヤバイ奴が有りそうだけど。

初めはSEXの代用品だったのだろう。ただヌク為のモノだったと思う。だが今もヌクという面はあるにしても興奮する為に脳の深い部分、隠されているフェチの部分をくすぐる様なモノに成っているのだ。本能で興奮するのでは無く精神で興奮するのである。

そのフェチの部分も「泣く女」「髪喰い」とかの世界にまで突入しているのである。

人間の欲望の底知れ無さは三千世界に響き渡る。どんな所にもエロスは転がっているという事なのだと思い知らされるのである。

街の中にこれらのフェチの人は無い喰わぬ顔で歩いていると思うと人間の自制心も中々のモノである。

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2010年06月15日

G.I.ジョー

これまたマンガ祭りといった感じの馬鹿映画。

面白乗り物、面白兵器、それに忍者に悪の組織、それに対する正義の組織。

これらの要素どう見てもマンガ映画の何者でもない。それも昔のという感じがする。

しかし変なラブロマンスがいただけない。人物に深みを出そうとか、カップル向けとかとの思惑が有るのだろうけどあまりにも中途半端な感じなのである。

ラブロマンスを期待している人とっては薄っぺら、馬鹿映画を期待している人には余分という害毒でしかない感じなのだ。

むしろ敵の事をもう少ししっかりと描くべきではなかったのか?

そして2に続くみたいなオチにしても今一つスッキリしない。残尿感が残るのである。続編を作るみたいだがヒットしなかった場合この残尿感がずっと残るのだ。

また主人公のキャラの薄さも気になる。華が無いのである。もう少しシナリオでわかりやすいキャラ立てをするべきだと僕は思う。とにかく敵も味方もキャラが薄いのである。

細かい馬鹿要素は色々と有るのだが強烈な馬鹿がないのである。後一歩の所を振り切れていないのである。メイキングではやりすぎでという指示が有ったみたいだが其処までいけていないのだ。

是非、アメリカ人は石川賢のマンガを読んでやりすぎというのはこういう事かと勉強してもらいたい。悩み無用のガチンコのパワーが欲しいのである。


やり過ぎとは爆発が派手とかではないのだ。行動がデタラメ、常軌を逸した行動が必要なのだ。その行動により爆発しなければ駄目なのよ。周りが見えている様ではまだまだ弱いのである。


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2010年06月14日

下に合わせる

政治にしても勉強にしても、ゲームにしても下に合わせようという考えが横行している様な気がする。

下のモノを救済する為に上を下げようとする考えコレは間違っていると僕は思うのだ。

常に下になる人間はいるのである。

それに人は常に怠けるのである。置いて行かれるという感じが無ければドンドン落ちていくのである。

ドンドン簡単にしていくと更に下の人間は考えなくなるのだ。現に色々便利になったおかげで人は生きる為の能力を低下させているのである。

ゲームをクリアーさせる為に難易度落すのはおかしいのである。クリアー出来ないから面白いのである。色々と考える事が楽しいのだ。苦手でクリアー出来なくても面白いと感じる事は出来るのである。何時からクリアーする事が面白さになったのだろうか?

将棋や囲碁、チェスなんかクリアー出来ないではないか。

クリアーする為に努力したいと思わせる魅力こそが必要なのだ。

また勉強だがオチこぼれを減らす為に簡単にするのは間違いだ、確かに出来るという気持が勉学の意欲を生むという面も有るのは確かだろう。しかしやるべき事は教え方を変えるという事が大事なのである。何故わからないのか?どうやって理解させるかを考えるのかが大事なのだ。生徒が理解しないからといって難度を下げるのは教師の怠慢なのだ。教え方は塾の教師の方が上手いという話もある。

政治もそうだ国民を救う、守るというのは国民を甘やかす事ではないのだ。政治を実行するのは国民と思わせなければドンドン駄目になるのである。政治家が俺たちの生活の面倒を見てくれる、俺たちの生活が駄目になったのは政治家のせいと安易に考える国民を造り出したら国は滅ぶのだ。自分達の生活を守るのは国民なのだ。

良くする為に努力させるの、方向性を指示するのが政治家の仕事なのだ。方向性を国民に聞きまくっている様では駄目なのだ。希望は聞いてもそれはあくまで考慮する要素でしかないのだ。間違った希望であれば修正し、何故駄目なのか説明するのである。

下に合わせたら未来は見えないのである。






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2010年06月13日

スタッフロール

映画のスタッフロールを観ないでサッサと映画館を後にする人達は結構いる。

まぁそれの対策なのかたまにスタッフロールの後にチョットしたオマケがついているのもある。

そんな事より実はハリウッドの大作映画のスタッフロールが7分とかあるのだ。タイトルバック(まぁ此方にはストーリーの流れが有ったり、ハッタリの利いた映像がついたり強いているけどね)と合わせると10分以上も主要キャストとスタッフの名前を観ているのである。

10分といえば短編映画としても成立する長さなのだ。

そんなモノがこの時間に追われるている世の中に必要なのだろうか?昔の映画とかだと「終」「劇終」「完」「THE END」「FIN」が出てそれで終りの潔さだったのだ。

そもそもスタッフロールを観客に見せる意味があるのだろうか?参加した者が次の仕事等につなげるか、知り合いに自慢する、俺は確かにココにいたのだ、俺もこの作品の一部なのだという足跡を残す為のモノなのではないか?そんなモノを作品にくっつける意味が有るのだろうか?むしろない方が作品としては良いのではないか?

NG集とかもエンドロールにつける必要があるのか?確かに面白いし楽しめる。

だが作品のトータル完成度としてはクオリティを下げているのではないだろうか。それまで観ていた作品の人物とよく似た者を観ているのだ、そして作品の世界とは違うモノがくっついているのである。

DVDとかで特典映像としてはいいけど。

だがそう考えると絵とかに作者のサインが書かれているモノが有るがそれは裏に描くべきではないのか?絵で自己主張して更にサインで自己主張。どんだけ自己主張するつもりなのだろうか。

少なくとも絵の中にサインを入れる事で絵が成立する様に書いているとは思えない。邪魔にならない様に入れようとしている事を考えてもサインを入れる事でクオリティを落しているのである。

人目につく所に入れるサインは作品の一部になのだ。作品の質を落してまで入れる名前を入れようとする人間の恐ろしさよ。

このままスタッフロールの時間増えていったらと思うと憂鬱な気持になる。

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2010年06月12日

横浜ラーメン 桜花

大宮のソニックシティ近くのラーメン屋。

醤油チャーシュー、濃いめ・硬め。普通(油)を食す。

感想は残念。多分もう行かないと思う。これだったら花月の方に行く。まぁ花月もラーメンが好きというより壺ニラが好きなのではないかと思われるフシがあるけど。

なんか醤油が尖っている感じがある。後味もなんか変な苦みが残るのだ。(コレはチャーシューのせいか?)食べていてホッとしない味なのである。かといってガツンと来る迫力もない。駅を挟んで逆側の横浜家系ラーメンの石川屋の方がガツンと来ます。スープはガツンと来るけどネギで良い感じに後味スッキリです。(まぁ最近は行っていないけど)

味が濃い=ショッパイではないと思う。少なくとも僕の中の基準ではそうだ。濃いめで感じた味わいがそんな感じ。醤油舐めて味が濃いとはいわないでしょ。(まぁコレは極端な言い方だけど)またスープのコクも無いのに味付けを塩だけの味わい無しを塩ラーメンと言い張る様な店もある。その塩も入れすぎると単に尖った味になるし、少なすぎると味が無ーーっ!!となる。サッポロ一番塩ラーメンの方が全然美味いと思える様ではイカンと思う。

まぁ味なんて人それぞれだから全て勝手な言い分でしかないけど。

美味い、マズイをあまり偉そうに論ずるのは恥ずかしい事というのは確かである。あくまで個人の中での尺度でしかないからね。

というモノのやはり僕的には次はない。


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2010年06月11日

政治バラエティ

太田総理を見て思った。政治は完全にバラエティになっているのだ。それも質の悪い視聴率がイマイチとれない様な番組が今の政治なのだ。

チョットした面白発言、過激な発言、今この売れている者を表に出し瞬間視聴率だけでも取ろうとする感じなのだ。視聴率が取れなかったら冠タレントを変える事であたかも新番組の様に見せるだけ。

またチョット問題発言をすると言葉狩りというのもまたバラエティの如し。

また国民は政治家のバラエティ化を親しみ易いと勘違いしてないか?政治家が親しみやすくてどうするのだ。庶民目線とか馬鹿かと思う。庶民の生活、国に対する要望を理解しているのと庶民目線は違うモノなのだ。また庶民の希望とは違っていても長期的に見れば必要な事で有れば実行するのが政治家の仕事の筈なのだ。


大体庶民は日々の生活の事程度しか考えていないだろうし持っている情報、知りうる情報が違うのだ。

それに無責任に深い思慮もなく思い付きで発言するモノなのだ。それに合わせている様ならば政治なんかいらない。

そんなに庶民目線が良いのならばそこら辺にいる主婦とかやらせれば良いんじゃないの?(問題発言?)

このバラエティ化を考えるとナチスが行なっていた事の延長が今の日本で行なわれているのではないだろうか。誰が仕掛けているのか良くわからないが。多分ナチスもヒトラーが仕掛けたのでは無いと僕は思う。良い御輿だったのではないかと考える。

誰も本当は仕掛けていないのかもしれない、色々な立場の人間がそれぞれの利益追求の結果ある種の回転を産み流れが生じているのだろう。パワーバランスである種の偏向はあるけどね。

だから陰謀というには不自然な、理屈に合わない様な流れが生じているのだろう。

今日本に必要なモノはダムである。国民の気持を受け止めコントロールし流すダムが必要なのでは無いだろうか。

気持をコントロールを国が行なうのは自由の侵害だという自称人権家がいうだろうけどね。

人権とは国があり、国を守ろうする者を救う為の権利しかないのよ。神が権利を与えている絶対的モノではないのだから。

人権とは国民権なのよ。




posted by mouth_of_madness at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする