2011年12月31日

終了

今年ももう終わります、早いモノです。世の中は色々な事が起きましたが僕にはコレといって大きな変化は無かった感じです。スピーカーが新しいくなったり、CDプレイヤーがPCに置き換わったりした位です。

淡々日々の仕事をこなし、映画を観て、ブログを書き、マリオカート7を小一時間程対戦し(あまりの下手さに凹み)寝る生活をこなし残り時間を消費していく毎日です。

今日は天ぷら鍋を磨くというのをやったけどね。

何か変化が欲しいと思いつつも劇的変化は面倒くさいとも思う日々。いやこんな事を考えて生きていけるというこの贅沢ともいえる日々、生きるか死ぬかとかとかを実感していないからこのぬるま湯から脱出しないのである、変化を望んでいるけどこのぬるま湯から出る程の動機がないのである。まぁたまには水風呂にでも入っていかにぬるま湯が良い場所であったのかを実感するべきとか言われそうだけどね。そして今のぬるま湯がベストではない可能性もあるからもっと自分に合ったモノを探す為にもぬるま湯から出るべきとか言う意見もあるだろう。

でも科学技術とかは進んだけど人間のやっている事ってあんまり変わっている様に思えない。変化は無いとは言わないけれど何千年も同じ様な事をやっているのだよ。

働いて、飯喰って、妄想して寝る。

人間の営みを根本から変える様な事は起きている様に思えないのだ。人とのコミュニケーションを一切とらなくするとか、世の中誰も働かないとかそれ位の劇的変化は起きていないのだ。(まぁこの例にしても従来の価値感に囚われた発想で逸脱した例とは言い難いけどね)

まぁ今年日本は大地震もあり愚かな政治を実感したとは思いますが多分コレ位ではぬるま湯から出る程の大きな流れにはならないでしょう。復旧して行けばまた忘れてしまいまた同じ様な日常が訪れます。そう考える政治家なんて新しい事を発想する必要はないのではないか新しい政策なんか打ち出す必要はないのではないかと思います。現状を見ておかしな方に行きそうだったら戻すという監視人で良いのではないかと思うのです。無理に新しい事をやり失敗されても困るのです。誰も劇的変化なんか求めていないというのが実情なのです。

笑点、サザエさん、ちびまる子を観てもわかる様に終わらない、変わらない日常が来るのが実は人が望んでいる事なのです。普遍はない、永遠はないからそれを無意識に求めているのではないかとすら思ってしまいます。


あと恐ろしいのはぬるま湯に使っている内に少しずつ水温を下げられ殺される事です。



そんなこんなで今年も終わりです。いつも通りにグダグダとした内容でした。テーマも代わり映えしない新機軸もないという状態です、いつまでこれが続くのか?

いつも観てくれている人に感謝です、変わらぬグダグダでこの先も進みますです。
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2011年12月30日

デフレ下での経済政策

インフレ時とデフレ時で経済政策は変えるべきだという意見がある。確かにそうなのだろう、極端に違う状況だ同じ政策で上手く行くという事はないというのはわかる。そして今そのデフレ状況真っ盛りなのだ、体力があるうちに対策は行うべきだとは理解できる。

状況により対策を変える!!

だが此所で考えないと駄目な事は極端なインフレ、デフレの周期に陥る事である。小さな周期は物事を動かす為には必要だとは思うのだが極端なまでの動きは本当に必要なのだろうか?

この極端に動くという状況は経済を何もコントロール出来ていないという事の証明なのだ、1度動き出すと極端になり壊れるまで止める事が出来ないという事なのだ。グローバル化になって更にコントロールは難しくなっているのである。

各国の思惑がありその調整が上手く行かないのである。ヨーロッパのグダグダ感を見ても一所懸命対策をしようとしているが今ひとつ効果的な手がうてていないのだ。

もしかするとヨーロッパだけならば対策は出来たのかもしれないがアメリカ、アジアの思惑等が絡みこのどさくさで儲けようという連中が事態の収束を阻むのである。むしろ不安定の方が儲かるからね。1度儲かり欲が暴走すれば止まる事はしらない。人は足を知るというのが非常に難しいのである。1度良い思いをすると下げる訳にはいかなくなってしまうのである。自分の意志では此所でという所で止める事は出来ないのだ。戦争とか天変地異とかの抵抗しがたい力で蹂躙されない限り欲は増大していくのである。

経済はどう動くかでは無く、どう運営し安定させるかを考えるべきなのだ。状況により替えるのでは駄目なのである。(まぁ今は緊急手当として必要だけど)だがこれからは人間の欲を法、教育等でコントロールする事を考える時代になったのだ、行き過ぎた経済暴走を止める為にも必要なのだ。

そしてやはり基本は状況が変わったら対策を変えるのではなく状況がかわらない安定した状況に持っていく経済政策を模索するべきなのである。

少なくとも今までやられた経済政策ではそれが上手く行かないという事は証明されているのが今なのだろう。個別の事案に対しては上手くいってはいるのだろうけど、状況が緩やかに変わってくるとさじ加減を間違えてしまうのである。
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2011年12月29日

美人は三日で飽きる

美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れるという都市伝説は嘘らしい、でも僕はコレが本当と妄想して何故三日で飽きるのかというのを考えてみた。

其処で考えたのがコレだ、美人がすぐ側にいればジッと見つめるだろう、ガン見するのだ。見続けるから飽きるのではないだろうか。逆にブスは凝視出来ない、見ないから長持ちするのである、まぁそれでも側にブスがいると心構えが出来ているからインパクトは薄れていくというのが慣れなのではないだろうか。

また美人を凝視していれば完璧な美人でない限り色々な問題点が見えてくる筈だ、元が高得点から始まっているから減点していく一方になるのである。だがブスの方は良い部分を加点していく事になり元より高評価になるのである。コレは日頃いい人が一寸した問題を起こすとガクンと評価が下がるが日頃ワルと認識されていると嗚呼此奴意外と良い奴という評価が良くなるのと同じである、下手をすると評価が逆転する位の効果すらあるのだ。

別のパターン

もしかすると此所でいわれる美人というのは自分にとっての美人ではない可能性だ、世の中の暗黙の美人像の認識での美人か否かの判断と個人の趣味の美人像は違うのである。食べ物とかでも良くあるではないか、味音痴といわれるのかもしれないが高評価の店のモノを食べてもピンと来ない、コレだったら近所の安定食屋のメシの方が美味いと思う事も有るのだ。

世の中の基準と違う感覚というのは多々有るのだ。いやむしろ世の中が美人といっているのは単なる平均値的なモノであり、誰が見てもコレは不細工ではないよねというラインかもしれないのである。

くさやの干物は駄目な人は全く駄目だがコレが好きな人はかわりがない位のモノだったりするのだ。尖った、極端なモノが好きな人もいるのだよ。

それに今の見た目の美人像というのは人が作った基準である、所かわれば美人像もかわるのだ。頭で作った美人像と遺伝子が欲する美人像が同じとは限らないのである。

そもそも誰も同じモノを好きというのは何かと問題が大きいと思うしね。


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2011年12月28日

ワイルド・オブ・ザ・デッド

西部劇+ゾンビのコメディ映画。作りはかなり緩いし笑いのセンスは何か微妙。

いや痒い所に手が届いていないだけで僕はそれなりに楽しめた。むしろ映画を観て此所を治せばとか改善点を語りたくなるタイプの映画だと思う。作りの甘い部分に残念感が漂い尻の穴がムズムズするのである。(蟯虫か!?)

上手く作ればバディムービーとしていい感じなのだ。此所のテンポを良くして、もう一ネタあればこの駄目コンビのキャラが立ったのではないだろうか。途中の牧師の話を抜いてでも入れるべきだったと思う。コンビの結びつきが強固になっていく過程が物足りないのである。

ラストのオチは良い感じでええーっ!!というブラックなオチなのだ。オープニングのツマラナイ笑いを考えた者と同じ人間なのか?と思い様な中々いいオチなのである。もう一つのオチの方もほのぼのとして心がホッコリするのである。オチに関してはかなり良いと思う。
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2011年12月27日

デストロイヤー

世の中にはデストロイヤーと呼ばれる様な人がいる。プロレスラーやアーノルドシュ・ワルツネッガーやゴジラと戦った怪獣とか(デストロイアだけど)今大阪にも橋下市長というデストロイヤーが誕生している。

確かに既存のモノを破壊する痛快感は人を引きつける。何か起きそうな気がするワクワク感がある。ビルの解体爆破の映像でご飯三杯はペロリといける位だ。昔は西部警察でワクワクしたモノだ。

それは映像であれば痛快と愉しんでいれば良いのだが現実の破壊となるとその後の事をしっかり考えておかないと駄目なのだ。

実際に破壊した後に何が生まれるのかがわかっていない状態で単純に破壊を喜ぶと後で大変な事になると思う。大型スーパー等に商店街が潰されたまでは良かったが儲からないとわかればさっさといなくなる大型店、また車が無いと買い物が不便になったりで老人等には大迷惑だったり。

公務員改革と称して大幅な人減らし等を行った挙げ句不便になったりとか、失業者が増えたりとかによるデメリットも有るのである。破壊された人達のフォローを考える事無く行えば問題が噴出するのではないだろうか。

またビルドを考えては板としてもそれが良いか否かは別の話だ、破壊は得意でもビルドが出来るとは限らないのだ。またビルドの技術もあるとしても別の自分にとって良い利権構造を作り出すだけかもしれない。

フセインを倒したのはいいが混沌、エジプトもどうよ?リビアにしてもカダフィーを倒したのはいいがカダフィーを支持していた者が圧政にさらされるというのが正しい事なのか?

破壊の痛快さに目くらましされて、浮かれていると足下すくわれる様な気がするのである。

つい数年前に小泉内閣で浮かれていて実際には日本は改善されてなかったというのを実感したのではないのか?(まぁ今も小泉待望論もあるから実感していないのか・・・)実感無き成長とかいわれているのにね。
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2011年12月26日

設計者

世の中は歯車とエンジンで出来ている。大半の人は歯車なのだが社会を動かす発想とパワーを持ったエンジンになる優れた才能を持つ人々がいる。

しかしこれだけでは世の中は駄目なのである。此等を組み合わせて社会を設計する者が必要なのである。しかしコレはエンジンになる人より更に少ない。エンジンの人が活躍できる様な社会基盤、概念をつくりだすわけだからね。

更にいうならばその作られた社会を運営する使用者というのもいる。コレは設計がしっかりしていて、使用説明書を読んで理解出来ればそこそこは運営できる。まぁ勝手な解釈をして使用の仕方を間違ったり、勝手な改造という使用説明書に書いてあるやって駄目な事をしてしまうのである。

またメンテナンスをしないと駄目になるのだが動いているからといってそれを怠っている、(実際はメンテして部品を長持ちさせるより、使い捨てで新しい部品に換える方が安上がりだと考えているのだ)安全装置、保安部品等を軽量化の為とかコスト削減の為といって取り外したりしているのが今である。此等はもしかすると最後まで使われないかもしれないモノだからね。

いま世の中を設計しているモノは三流である。その仕組みは等の昔に駄目という答えが出た様なモノを知識が無い為に新しいモノを思いついたと勘違いしている感じがするのだ。ただ新しいという発想だけでそれは良いモノであると問題点を指摘されていても聞く耳を持たない設計者もいる、また欠陥設計をみて失敗を心待ちにしそれで儲けようと企んでいる暗く黒い奴もいる。

ようするにろくな設計者がいないのだ。そして歯車の僕に出来る事は少ない。暴走を止める為に歯車として欠ける位か?まぁそれでも僕の代わりはいくらでもいるからすぐに交換されて終わりである。次の人も同じ様に欠けてくれれば何か設計に構造的欠陥があると思ってくれるかもしれないけどね。
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2011年12月25日

スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団

一部では高評価の映画、確かに映像的には面白い。だが僕にはこの単調な展開が退屈でしょうがなかった。面白みの部分の映像もずっと観ていると飽きてくるのである。

もう少し時間が短ければよかったのかもしれないが、やはり面白映像で観る者をひきつけようという部分の偏りすぎた感じがあるのだ。

また主人公が一番邪悪という感じもリアルなのかもしれないのだが、其処ものめり込めない部分である。

笑いの部分も小ネタの積み重ねという感じだし、その小ネタも僕にはちっともツボにはいらないのである。いや最初の30分程度はまだ楽しめた、でももう途中からクスリとも来なくなってしまうのである。

この感覚についていけないというのは僕が年をとり感覚が硬直化しているのかもしれないけどね。是非これが面白いという人解説して欲しいと思う。
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2011年12月24日

風雲U・ストームウォーリアー

300の影響を貪欲というか、あれカッコいいから俺達もやろうぜという気楽な勢いでドーンと作ってみましたという感じの映画。

ただスケール感が無いのである、真似するとしたら其処じゃないのかと僕は思うのだがこの映画を作った人は予算の関係か、違う感性の為かわからないが其処を真似する事は無かった。もしかするとこれまでの香港映画とかでは人海戦術を使って映画を撮っていたりするからワラワラと人が出るという部分がピンと来なかったのかもしれない。

でも人海戦術を使った上でCGで更に水増しという物凄い量の人を蹴散らすというのを個人的には観たかったと思う。人の海を十戒のモーゼの如く切り開いて欲しかったと思うのだ。

そんな状態の強さに上に君臨する絶無神であって欲しかったと思う。そしてその圧倒的力に対抗する為に魔の力に自ら暴走させる風であって欲しかったと思う。なんか始めっから暴走状態ではイマイチである。やはり強さを見せる段階を踏まえないとねと思うのである。

絶無神を意外とあっさりと倒し、その後の暴走がダラダラと続く状態を見せられても物足りないのである。

僕の考える少年漫画的展開ならば

1.雑魚相手に圧倒的力をみせる風と雲
2.絶無神に苦戦する
3.風の魔の力開放で絶無神を倒す
4.最初はコントロール出来ていたのだが暴走しだす風
5.暴走した風になす術のない雲
6.しかし一瞬意識が戻った風、そのタイミングで奥義を繰り出し魔を払う雲
7.全ての力を使い果たした雲、
  其処に実はまだ完全に死んではいなかった絶無神の最後の攻撃
8.その攻撃から風を守ろうとして絶命する雲
9.絶無神に止めをさす風

こんな感じのベタな展開が欲しかったと思うのだが・・・・

簿妙にこの映画を観た後にスッキリとしないからこんな妄想が膨らむのである。まぁ僕の妄想より映画のほうが全然良いとひとの方が多いのだろうけどね。

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2011年12月23日

大衆政治

ポピュリズムに民主主義、大衆の意見が政治、政策を左右する、やはりこれは失敗する事を前提にあるのだが、自分達の意見により物事を決めているから多少のガス抜きと責任放棄という武器を手にして狡賢く立ち回る。それに大多数が選んだ候補者が勝つという事は反対意見は少数派になり不満を押さえ込めるというおまけ付き。

まぁ本当に多数派かという問題もあるけどね?三人の候補者がいて一人はTPP賛成、残り二人はTPP反対その場合TPP賛成の候補者が40パーセントとって選挙に勝った場合本当に人はTPPを支持しているのか?まだこれは3人の為に40パーセントとかとれているがもっと候補者の人数が増えTPP賛成が一人で残りが反対の状況で20パーセントとかで当選した場合に民意とはどうなるのだろうか?

多数に頼ると何故駄目になるのか?

それは賢い人ほど少人数になるからだ、馬鹿が3人集まっても文殊の知恵にはならないのだ。実際に大多数は馬鹿なのだよ、自分で何も考える事なく、マスコミや政治家、有識者により単純化された2,3の項目を選ぶだけなのだ。

ことわざ的におかしい?いや僕は間違っていないと思う。文殊の知恵が出る為には賢くは無くても自分の考えを持ち、考えているという前提があると思う。

そして人は此処から正解を選ぶという事は出来ない、何故ならばこの項目を導き出した理由がわかっていないからなのだ。

選挙の時に郵政民営化だの消費税問題だの公務員改革だのといったわかりやすい問題点が選挙の争点にされる。だが本当にそれらが争点に値するか否かを殆どの人は考えていないのだ。その個別の問題だけで判断しているのが現状なのだ。問題点を提示されたからその答えを選んでいるに過ぎないのである。それでなんか政治の事を考えた様な気になっているの頓珍漢なのである。

だがそれは仕方の無い部分ではある。殆どの人は全体像を把握する時間もないし、頭もない。(俺流の考えでの全体像があるかもしれないけれどね)全体像を考えていない状態で個別の判断をしていては何時までたっても全体の流れが生まれる事はない。

その結果過去の判断との矛盾がバンバン出る事になるのだ。

また政治家も大衆が馬鹿の方がやりやすいから啓蒙して賢くしていく事はない、問題を単純化して判断されるほうが楽だからね。馬鹿を扇動するのも容易いからね。

しかし大衆を扇動する者もそう賢くはない、だからこんな安易な方法をとるのだ、その結果ドンドンとドツボにはまる事になる。安易な事をして問題を先送りにしているだけだからね。社会を良くして大衆を賢くする事の方が結果的に政治的に安定し本当にやりたい政治が出来ると思うのだが短期的利益をとってしまうのである。その程度のボンクラなのだ。

またマーク・トウェインも言っているら「多数派は常に間違っている。自分が多数派にまわったと知ったら、それは必ず行いを改める時だ。」これを考えると選挙で勝つというのが、いかに間違った人を選出しているかという証明の様な気がするのである。

賢い人間が圧倒的多数になるのが難しい事を考えると民主主義などは空論でしかない。
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2011年12月22日

夢見る科学

宇宙人は地球に来ない、光速で飛べるにしても遠すぎるとかいう意見を聞くともう絶望的になるのだ。

科学は色々な現象を解き明かすのだろう。しかしそれにより世界を狭くする感じはどうにも嫌な感じがするのだ。確かに世界はそうなのかもしれない、その現実を受け入れるのが大人の対応なのかもしれないがやはりそれはツマラナイと思う。

何故科学と言う檻の中に自分達を閉じ込めようというのか?そんな諦めにも似た感覚は人生を灰色にするのだ。

その科学の限界を超えようという心意気が欲しいモノである。それまでの物理法則すらねじ伏せる知恵の可能性を信じていて欲しいと思うのだ。

地球より進んだ宇宙人は人間の思いもよらない様な技術と物理法則を持っていて欲しいのである。そしてウヒョーーーッと言わせて欲しいのである。

タイムマシンも出来るし、反重力装置も出来る、光速を超えた移動で宇宙の果ても見る事が出来る(いや出来ない?もっと先に凄い事があるかもというワクワク感だけが残るのがベストか)

超能力も霊魂も天国にすら行く事も出来て良いのだ。其処までいっても謎は山の様に残り、人間の想像を超えた世界が拡がるという科学であって欲しいのである。

解き明かす事で世界を狭くする様な科学はいらないのだ。これが出来たのならば次はアレだという位に貪欲に夢を広げる科学であって欲しいのである。

世界を解き明かしそれに縛られるそんなのは御免だ。そんな科学ならば早いところ捨ててしまうべきだ。そんな矮小な視点の科学では先が知れているのだ。
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2011年12月21日

キャベツ

キャベツ、時期により様相がガラッと変わる、また産地とかでも結構違う。紫キャベツや、グリーンボールといわれるモノもある。

紫キャベツやグリーンボールとかは名前が違うけど、大体が産地+キャベツ、まぁ後は春キャベツと表記されている位か。

なんか別物という感じなのに大雑把にキャベツという大らかさなのだ。まぁ色々と違う名前をつけられた所でスーパーとかで買う限りは色々な種類を用意されている訳ではないので買い分ける事なんか出来ないけどね。

見分けは重さ、形等で判断するしかない、それと半切の奴をみて密度を見る位か。

困る事は柔らかい奴が欲しいと思っても売っていなかったり、固い奴が欲しいとしても手に入らないという問題である。それが季節感だよと言われればそれまでなのだけどね、その季節に合ったキャベツを食えよと言うのだろう。とはいっても料理によってかえたいのである。
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2011年12月20日

金も死ぬ

北朝鮮の将軍も病には勝てませんでした。この年末のドサクサに死亡するなんてやはり人騒がせな指導者であったという事か。

しかし金正日とカダフィ大佐を同じ独裁者として扱う事に関してはどうも腑に落ちない。カダフィ政権の下で生活している訳ではないし、北朝鮮に住んでいるわけでもないから何もかも単なる僕がこれまで目にした情報での皮膚感的判断でしかないけどね。

ただこれがこれまでの世の中の終焉、2012年世界動乱の始まりにならなければ良いのだがと思うのである。来年は2012年問題といわれている位だし、オカルト的にもマヤとか言う人もいるしね。なんか正月早々なんか凄い事が起きるのではないかとすら思ってしまうのだ。

韓国の李明博の身の回りもきな臭く、慰安婦問題で有耶無耶にしようとしている感じが実に痛々しい、此処に嫌な不安感が残るのである。

日本の冷温停止の前倒しの部分もどうも気になる、日本の技術力、労働者の意識等を信じたいのだがこれもまた来年に残す訳にはいかないという政治的思いがあるような気がするのである。

世の中はドンドンと変わっていく、矮小化した人間には手に余るような勢いで動いているのだ。ドンと構えるという事が出来ないからブレーキをかける事が出来ないのである。一つずつ世界の歯止めが壊れて加速していく、予想外の展開に戸惑う事になりそうな気がするのである。其処で出し抜こうとアクセルを踏む馬鹿がいる。今こそ世界を変えるチャンスだと勘違いしてね。

まぁこの様な僕の妄想、不安感は基本的にハズレるから何も大した事は起きないのかもしれない。世界的には色々と起きるけど各国良い感じに処理していって日本だけがグダグダとかいうのが一番有りそうかも。

いや僕の妄想は当たらないのであればガンガンと妄想を垂れ流せばそれを外して良い感じになるかもねとすら妄想してしまうのだ。



何時もより75パーセントの内容の薄さでした。
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2011年12月19日

EATERS

またしてもゾンビ映画。それもマスター・オブ・エラーの異名を持つウーヴェ・ボル制作のこの映画一筋縄にいく訳がないのである。

しかしだこの映画出来はそんなに良いと言えないのだがダウナー系の映画として味わいが有るのである。独特の世界感が有るのだ。ウーヴェ・ボルの弾けた馬鹿っぷりはあまり感じられなかった、きっとコレはルカ・ボニ監督の味わいなのだろう。

奇妙なキャラクター達を出すのだが説明も少なく、結構大胆な使い捨てっプリに頭がクラクラするのだ、コレが逆にデストピア的な味わいを生み出しているのだ。こんな世の中で濃厚な関係性を持ちたくないという変なリアリティが有るのだ。他人の事なんか知らない、表面的付き合いという現代的な感じが良い感じではある。

まぁストーリー的充実ならばもう少し色々なバックストーリーが有った方が話に引き込まれるとは思うけどね。ストーリーラインが薄い為に引き込まれる原動力は弱い為に微妙に眠くなるのである。台詞周りもテンション低めで淡々としている為にコレもまた眠たく成る要素。

ラストの淡々とした観客を突き放した様な投げっぱなしのエンディングも中々気持ちが良い。色調を押させた感じにする事で低予算を上手く誤魔化すのも監督の作戦勝ち。ただやはり何か弾けた部分が何か一つ欲しかったと思う、うおっ!!という部分が無かったのは残念である。


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2011年12月18日

新しいモノは善なのか?

新しいモノを否定したり、ピンと来ないとか言うと古い考えだの、重力に魂が引っ張られた世代とか言って否定する人がいる。さも俺は物わかりがいいぜ、新しいモノに対応するぜというしたり顔で鼻の穴を120パーセントにする。

TPPに関しても総論賛成、各論反対というさも俺は物事考えてますよ、感情論に流されてませんよという訳知り顔をしてこれまた鼻の穴を150パーセントにするのだ。

とにかく新しいモノは良いモノで有る筈である。それに対して俺は理解があるぜという立ち位置で自分が世の中の流れの本道にいると考えているのだ。そして新しいモノを否定する事、疑問に思う事を思考停止とレッテルをはる。

しかし本当に新しいモノは善なのだろうか?有る側面では良いというのが有るからそれを採用する事になる、全面否定は難しいかもしれない。だがその副作用としての部分もあるのだ、それを重くみるというのは間違いなのだろうか?

今のおかしな経済状況をみても自由経済は正しい、グローバル化は正しいという理屈的にはコレが正しい筈なのだと間違いを認めない、また開国か鎖国かという問題も開国の方が正しい筈だというのだ。そんな単純なモノではないし、鎖国が本当に駄目ないモノという根拠もない。

極端な例で考えれば鎖国こそが正しいかもしれないのだ。周りが泥棒、山賊、追い剥ぎだらけである時に門を閉ざす事が悪なのだろうか?確かに良いモノも入らなくなるからデメリットはあるだろうだがそのデメリットは門を開けていたデメリットと比較してどうなのだろうか?

しかし今は誰かを生け贄にすれば被害は最小限度に抑える事が出来るはずと考えているフシがあるのだ。誰かが犠牲に成っても先に進む、小さな発展をしようという妄想に取り憑かれそれこそが正義と考えているのだ。

そもそも誰かを犠牲にしてまで発展する事に意味があるのか?それほど発展が大事なのか?僕にはそう思えないのである。いま発展が止まった所で新たなる不幸は生まれないと思うのだが。
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2011年12月17日

自分探しなんかいらない

何故人は自分探しをするのか?僕が考えるに個人主義の蔓延がその原因だと思う。個になった為に社会と分離して二つのモノになったからである。元々は社会の一部だった、そして今もそうなのだが別物として扱う様になった事による副作用なのである。

元々自分だけで個を確立する事が出来る人は少ない、いやもしかするといない可能性の方が高いのである。全ては外部情報等により洗脳されていきある種の自我を作り出すのである。

昔は親のいう事、周りの人にいわれる事、社会との関係性が「君はこんな人になりなさい、君はこんな人ですよ」と定義してくれたのだ。だからそれを素直に鵜呑みにして、周りの人の期待に添っていれば自分を確立できたのである。そうしていれば社会に自分の居場所が有ったのだ。他人に似ていても問題ないし、飛び出た個性なんかなくても良かったのである。

しかしだ何処かでおかしくなった、自分が有るという事は個性的であるという変な思想の蔓延である。個性的でない人に個性的に成れと言われるのだ、個性的でないと駄目という位に人格を否定されるのだ。個性があるというのが自立の如き糞みたいな思想なのである。歯車に成る事なんかツマラナイ人生だと否定されるのである。

そんなこんなで悩んでいると「ありのまま自分でいいんですよ」というような生温い言葉に逃げ込む事になるのである。そんな事では癒されないのだ、何も解決しないのだ。その生温い言葉はたとえるなら九九が出来ないと悩んでいる子供に九九が出来ないくても良いんですよ、それも貴方の個性ですと甘やかしている様なモノなのだ。その生温いモノに使っていると行き着く先は怪しい宗教である。自分を認めてくれるコロニーの居心地の良さから抜け出せ無くなるのである。

社会の歯車になる、実はこれ結構難しいのだ。自分の替わりになる人間は沢山いる、それから自分の居場所を守るのだ、一所懸命守るのだ、しくじればあっと言う間居場所を失うのである。それが出来ないのを個性という言葉で逃げては駄目なのよ。大体「イホッ!!」というような個性の人なんか稀だからね。殆ど誤差でしかない個性ざんすよ、そんな事に悩む前にやる事があるのだ。それは九九も出来ない人間が微積に悩む様なモノなのよ。目の前の事をまずはこなすしかないのである。

それに自分とは探すモノではない作るモノなのだ。成りたい自分になれば良いだけなのだ。まぁ成れるとは限らないけどね。それでも探すよりは良いのざぞ。
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2011年12月16日

中途半端な賢さ

自称賢い人は何かと暴走しがちである。本人は暴走しているとは思っていないし凡人から観れば賢い人の行動は良くわからないという事で納得してしまう。

しかし実は暴走しているのである、間違った選択、判断が日常的に氾濫し、天才的閃きと勘違いした思い込みが人を縛り付けるのである。暴走しているから今の世の中が混乱しているのである。本当に賢い人の判断ならばこんなおかしな状況にならないのだ、考えがひっくり返る事などないのだ。

状況が変われば意見は変わる?考え方が変わる?

考えがひっくり返る様な状況に成る事自体がそもそもおかしいのである、それまでの考え、方針が間違っているからそんな状況に成るのである。

何故自称賢い人は間違うのか?それは凡人より賢いからである。賢さの度合いに比例して人数は減っていく。そうなると自分より愚鈍と思える人間には出会うが、自分より賢いという人に出会う事は少なくなる、下手をすると一生出会わない可能性もあるのだ。(本とかで出会う事があったとしても人間として実体感がある出会いは少ない)

学校の成績でもトップレベルだったりすればそりゃ天狗になる筈だ。確かに論理を組み立てるのは上手いのだろう。だがその論理を組み立てる為のモノを作り出すまでの能力はないのだ。小さい兆しを発見する直感とそれを引き寄せるだけの力が必要なのだ。

自称賢い人では世の中、社会を動かすにはまだまだ能力が足りないのである。東大トップくらいでは足りないのである。甲子園に行ければ確かに凡人に比べたら遙かに野球上手いのだろう、しかしプロになれるのはその高校球児の一部だ。更にプロで成功し記録を残せるというのは更に一部なのだ。

日本代表レベルになれるのはごく少数なのである。

世界レベルに成らなければ国際政治なんか動かせない、今までは町内の草野球でも大丈夫だったのだろうけどね。

現役だけではなく時間軸まで考えた上で自分の賢さを客観視出来る位の視点が最低限必要なのだ。身の回りでは一番賢いよねと思って調子に乗っては駄目なのよ。


僕は馬鹿で良かったと思う、周りに色々な考えがあり天狗にならずにすむからね。
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2011年12月15日

ナルニア国物語 第3章 アスラン王と魔法の島

子供向けファンタジー映画という感じの出来、ただなんか説教臭い感じがハナにつく。

またもう少し試練の部分を丁寧に描くべきだったとも思う。其処を丁寧に描かない為に説教臭い映画になっていると思う。試練が絵に描いた様に日頃思っていた鬱憤の爆発で実にペラいのである。

また嫌な奴で出てくるユースチスが素直になるという部分にも何かもう一つ欲しい所だ。コレまでの自分と変わるという劇的な事がないと駄目だ、ドラゴンに変えられるという部分は確かに見た目的には劇的なのだがそれでは駄目なのである。成長を促すドラマがあってこそ変わるべきだと思う。

細かい部分がやはり雑なのだろう、子供にもわかる様、退屈しない様にという意図でそうなっているのかもしれないが完成度を落としてそれを行うのは本末転倒なのではないだろうか。子供にも観て欲しいモノほど丁寧に描かなくては駄目なのだ。難しい内容を簡易に、内容を薄くする事とわかりやすく説明する事は違う事なのだ。

あと映画の良し悪し部分ではないがドラゴンの顔がイマイチ好きでは無かった。出来が悪い訳ではないけどね。
posted by mouth_of_madness at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月14日

先入観の檻

日本が南京大虐殺を認めないない理由についての考察という記事をみた。

なんか色々と理由を書いて有るのだが、あくまで日本軍は虐殺をやったという視点で何かと理由をつけて認めないという考えで理由を考察しているのである。

虐殺の事実はなかったという考えで認めないという考察が欠落しているのである。

この発想がない限り先に進む事はない、もしかすると自分達が間違っているかもしれないという考えが有ってこそ先に進む事が出来るのである。自分の考えが間違っている可能性は常に有るのだ、思い込みこそが思考の自由を奪うのである。

まぁそうはいっても時間は有限、常にそんな考えで行動しては時間は足りなくなる可能性が高い為に自分の中での常識を正しいモノとして使うのだ。其処がある種の人間の限界の様な気がする。

常に1+1=2は本当に正しいのかとかを考えていたら中々生活は大変なのである。

しかしその様なモノの積み重ねで檻は強靱なモノになり自分を形成していく。自分という檻から抜け出す事が出来なくなるのである。まぁ自分という檻の中にいれば安心だし、ぬるま湯的な幸せが待っているのだ。
posted by mouth_of_madness at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月13日

南極大陸

いつもの演技のキムタクで連続テレビドラマ化している南極大陸、以前映画化されたモノは南極物語で別物といえば別物であるが下になる実話の部分が有る為に全くの別物ではないと思う。

テレビドラマ番は時間がたっぷりある為に映画より細かい部分各キャラクターやエピソードの充実により重厚感溢れそうなモノなのだが、この南極大陸は単に水増しされただけで中身がスカスカな感じしかしないのである。1時間見ても10分位のドラマの充実感でしかない様な気がするのである。その点朝の連続ドラマ「カーネーション」は15分で1時間のドラマを見たような充実感がある。

視聴率が急激に落ちたのもその見応えの無さに有るのだと思う。

多分コレは連続ドラマという尺のモノでは無かったのだろう、前編後編の4時間半位のSP位が丁度良かったのではないだろうかと思う。確かに演出や脚本が良ければもう少し長いのも可能だとは思う、だがこの監督、脚本家には其処までの技術は有るように思えないのだ単に時間を伸ばしただけで情報が増えたと思えないのである、その延びた間が良い感じの時間経過の演出に繋がっている様に思えないのである。

タロとジロの話は知っている人も多いのだ其処の部分で強い興味を引くのは余程演出にひねりが無いと難しいと思う。知らない人対しても其処が見せ場というのならばもっと丁寧に犬との絆を描かないと駄目だと思う。犬と積み上げていった時間が薄いのである。

むしろタロ、ジロの話はサラッと流し他の部分、あまり知られていない様な苦労の部分をメインに描いた方がよかったのではないだろうかと思う。
posted by mouth_of_madness at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月12日

出来なかった

政治家の公約、出来なかった、問題に気が付きやらなかった、始めからやる気は無かった、という理由で行われない事がある。

結果としてはどれも同じである、理由はどうあれ実行する能力が無かったという事だ。

しかしそれでも人気がある、次に期待をされる人達がいる。コレは一体何故だろうか?表に出てくる情報だけで公約を守れていない様に見えているだけで実際は6割方は達成しており出来ていない分より多いという判断なのだろうか?大きく掲げた事は出来ていなくても細かい法案は達成できているからいずれはという期待なのか?

まぁ打率で考えれば3割いけば良い打者という評価を受けるのだから、政治も3割達成できれば評価出来るという事なの?コレならば殆ど政策を通す事が出来ていない様に見えてても何か出来てそうに見えるね。

それに党の公約であれば個人的政治実力が無くてもコレ位は可能そうだ。後はテレビとかで勢いのある意見をかましていれば何か仕事している様にみえるしね。党の中ではそんなに発言権なんか無くてもテレビとかで咆えるだけ目にはつくからね。咆えすぎると党内で反発や失言で失敗はするけどね。

また3割しか与党が達成できていないという事は野党はそれだけ阻止できているという事だから野党の掲げていた政策が通らなくても阻止したという実績が残れば何か仕事やっているように見えるのだろう。

こんな風に意味不明感が残る人気とかが醸成されるのではないかと思う。

またダーティなイメージがあったとしても地元では腰の低い善人面があれば、ワルが良い事すれば効果3倍増し効果もあるからマスコミで全国的に叩かれるという事も実は良いのかもしれない、まぁ犯罪者になるのは避けないと駄目だけどね。

善人は少しでもワルい事すると3倍増しで失墜するけどね。

そう考えると多少ダーティなイメージがあった方が意外と良いのかもね。

もしかすると出来ない奴が頑張って一つでも公約を通すと良くやったと思えるのかもしれないね。出来る奴と思っていた者が出来ないと逆に金になびいただの、長い物に巻かれたとか思われるのかもしれない。

あと出来なかった理由を抵抗勢力がいかに根の深い組織かというのを印象づければ孤軍奮闘しているように見えて其処が頑張れという気持ちが票になるのかもしれない。
posted by mouth_of_madness at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする