2014年08月11日

ハンガーゲーム2

あのハンガーゲームの続編、そして繋ぎ作品感が半端ないので見終わって後の満足感が低い、これから観ようと思う人は続編が出来てから観るのがいいのではないだろうか。

一作目も続きは有る感じがあったが第一章完的な一つの戦いは終わったという感じがあったから続きが無くても謎は残るけど観たという感じ見終われる。

でも今作はとりあえずネタ振りだけという感じだからね、何にもスッキリ出来ない、ひたすら残尿感だけが残るのである。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」なんかはその辺が上手いと思う、続編を見なかったとしても残尿感はない、この作品の続くはワクワクする期待感だけを残すからだ、続きが気になるというよりまた楽しい映画が続くのかという期待感に夢が膨らむのだ。

「スターウォーズ帝国の逆襲」は多少キレが悪いからハンガーゲームと同じ様な面があるが1作目の世界を拡げるという面があるのでまだ楽しく終われる。

でもねぇハンガーゲーム2はねぇ拡がりではなく、終着点は大体わかっている状態で、主人公はどの様に体制を潰すのかというのを期待している時に延々と体制を倒すまでの準備段階を長々と見せられるのが退屈なのだ、続編がどれ位のボリュームになるのかはわからないが今作と次作の内容を合わせて3時間位でまとめた方がスッキリしたと思う。

今作があまりにもスッキリしないので続きを観ないという人もいるのでは無いだろうかと思う程の出来なのだ。

また間だが開くことで続きを観る目が厳しくなり余程のイイオチを用意しないと評価が厳しくなる筈だ。

もう少し先まで描き反撃の狼煙が上がり主人公が立ち上がる所までを描いて欲しかった思う、だが其処まで描くという事は記念大会の裏を描く事までをやる事になり続編のネタに困るのだろう。
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2014年08月10日

マンボーグ

80’sアホタレ映画の映像とノリを現在に描く集団ASTRON−6の作品。

この集団の映画初めて見たけどイマイチ合わなかった、馬鹿映画は好物な筈なのにこの馬鹿感がどうにも安いのである、馬鹿っぽいでしょ、面白いでしょこのノリという心の底から湧き立つ天然の悪ノリ感が今ひとつ感じられないのである。

分析的に作り上げられた偽物の馬鹿という感じがするのだ、タランティーノやロドリゲスの馬鹿感に比べると馬鹿がハナについてしまうのである。

無邪気さが足りないのだと思う、悪ノリと現代性の両立が出来ていないから単なる物真似の域を脱しない。

安さ、雑さを誤魔化す為の80’sテイストというのでは面白くないと思う、必要なのは勢いであり、楽しませようという心意気である。

それは決して安っぽいモノではない、結果として安っぽいモノになってしまったモノなのだと思う。才能等は無くても志は高いその結果としての安さなのだ。

想像力に技術とセンスと予算が追いつかない為の安さなのである、その安さを面白いでしょとやっては駄目なのよ志が低いのよ。

低予算でも面白いモノは作れるというのがあり、安い映像でも想像力で補わせる魅力を作品にたたき込み事が大事なのである、安い映像をみてニヤニヤする笑いで満足していては駄目なのだ。

追伸
マンボーグというタイトルでマンボをやる為のサイボーグみたいに思うのは僕だけだろうか?マンボが地獄から来た者達の弱点とかで、途中までは普通に戦うのだけど全く歯が立たない、でも最期の切り札としてコアに入っているモノがマンボノリズムに反応して強くなる、逆に敵はマンボのリズムを聴くと萎えてしまうとかでどうでしょうか。
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2014年08月09日

左翼

左翼って言葉が使いづらいと思う今日この頃。

かっては新し買ったかもしれない共産主義的、社会主義的考えも古臭くなりちっとも革新的では無い状態のオールド左翼とリベラリスト的な考えのニューカマー左翼とが混在していて実に面倒臭い。

まぁそんな事を言いだすと右翼にしてもどの視点の保守なのという問題がある。

実に右翼も左翼も使い勝手が悪すぎるのである、迂闊に使うと誤解を招きかねないややこしさなのだ。

それに革新的という感じの左翼が本当に革新的なのだろうかという疑問もある、なんだろうこのプログレッシブロック的な煽りを感じてしまう、かっては革新的だったのかもしれないけれど今となっては古臭いスタイルに思えてくるのだ。

何かを表す名称に新しいとか古いと言った時系列の意味合いを入れると問題になると思う、ニューウェーブ、ニューミュージックとかかなり痛い感じする、安易にそういうカテゴリー分けをしては駄目なのだ、新しいモノは常に時間が古臭くしていくのはわかっているからね。

時系列は入っていないのだがフュージョンとかミクスチャーとかも微妙にヤバイ匂いがある、それが一つのスタイルで定着するともうねぇ何も混ぜていないのではないかという気になってしまうのだ、それに伝統芸能を守るが如く頑なにそれを守らなければドンドンと流行を取り入れ、面白と思ったモノを取り入れて変化していくモノでしょう、あえてフュージョンとか言う事が間違っている様な気がするのだ。

その痛さこそが侘寂でありモノの哀れなのだというのかもしれないけどね。
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2014年08月08日

軽い

渡辺美樹がワタミグループの経営不振に対して檄を飛ばす意味で「お前たちがだらしないままだったら、議員バッジを外して戻ってくるぞ!」と言った記事を見て思う。

随分と有権者を馬鹿にした話だと思う、投票した人の思い何か関係無し、落ちた候補者に対しても何の責任も感じていない感じが実に問題だと思う。

何の覚悟も無く、政治への思いも無いという事がこの一言にに滲み出ているのだ。

政治ってそんなに軽いのか?(まぁ実際軽いけどね、軽すぎるくらいにフワフワしているけどね)

この軽さをみると単にその他大勢の政治家は単に等の言いなりで考える事も意見を言うこともなく単なる決定時の一票でしかないという事を表しているのだ、この様な軽口に対して何か指導や処罰等を考えたのだろうか?多分考えてはいない筈だ、一票が欲しいだけなのだろうから、党に大きな問題を与えない限り問題なしという認識だと思う。

また雇われ候補者も自分と仲間のビジネスに得があればしめたモノ、辞めた後にビジネスに復帰した時に社会を自分の都合の良い状況になればしめたモノ、コネが出来れば良いとかそんな打算的なモノでしかないのだろう。

議員定数削減とかは僕は望まないけれど、この様な役立たずを政治家にする事はイカンと思う。

多分この軽さが河野談話を生み出す原因にもなっているのだろう、その場の思いつき、イイ格好しいという部分が安易な政治を行うのである。

また政治家というのは何かを達成したいという思いはあるけどこの自意識の軽さもまたおかしな政治を行う原因である、何も達成しなくても、改革なんかしなくても良いのだ、悪化させる事無く次の時代に社会を送り届ける、その様な地道な作業こそが大事なのである。
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2014年08月07日

原爆

今年もまた来てしまった終戦の諸々。

原爆を神格化している感じが実に嫌、確かに一発の破壊力という面では凄いと思うし逃げ場の無さ感も凄まじいとは思うけど、人を抹殺するという面では多の爆弾も大差ないと思う、1発で済む所が100発になった所で人の行う狂気としては大差ない、いやむしろ爆弾を落とし続けるという部分に人間の狂気の業の深さを感じる。

日々ルーチンワークの如く毎日の様に爆撃するとかの方が人間性を失っている様な気がする、自らは爆撃に参加せずに指示するだけの狂気の方が恐ろしいと思う。

これはねぇ今も戦争以外で行われていたりする、企業でのリストラとかが同じ構図である、社員の顔が見えないまま単に数値化された問題でしかない状態に陥り、それを如何に効率的に処理するかという仕組みに同じ構図を感じる。

色々な事に堪えられない、自分の狂気対する風当たりに堪えられないから指示を出すのだろうか?

多分違う人に何も興味を持っていない、対象に何も興味を保っていない、単なる障害という認識でしかないから何でも出来る、些細な事を自らの手を汚す事もなく、手間をかける事もなく処理したい事項でしかないのである。

其処に人間の狂気がある、いつの間にか様々な事が当たり前になり他者の痛みを感じられなくなるバグが人間の脳にはあるのだ。

多分、原爆も度々使用される様になると麻痺していくよ、10万人死ぬのが常態化してしまう、ある一線を越えればそれは大した問題では無くなるのだ。

空襲もねぁある種の常態化したからインパクトが無くなっているのだ、トータルの被害は大きくてもピンと来なくなるのである。

其処に人の狂気は宿る、ある一線を越えると麻痺してしまうのだ。
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2014年08月06日

未来社会

エリジウム観て考えた、未来の格差なのだが荒廃している、環境は悪化しているけど、マスク等をせずとも暮らしていけるという状況の地球、その様な時にエリート達は宇宙に出るだろうか?

電気は太陽光等で賄えるとしても、様々な致命的問題が起きるであろうスペースコロニーに移民する程のメリットを感じないのである。

荒廃しているとしてもその中での地球の一等地にドーム都市等を作るのではないだろうかと思う。

本当に地球に住む事も出来ない状況か、その新天地がトンデモ無い程の楽園でも無い限りエリート達はその地に移り住む事は無い様な気がする。

そんな妄想考察をしていくと、温暖化だの、環境汚染だのという地球に問題があるという風潮を作り出し地球外に移住待ったなしという感じになる。

中途半端な自称エリート達は如何にもなSF未来都市みたいな所に住み、一般人もそれなりの街に住む、多少の格差はあるけれど現実の今の社会にもあるレベル以下の格差ではないだろうか。

現時点で最底辺と思われている人々は移住計画の理由になる地球状況とロケット不足等に依り処分される、移住計画の理由は人為的に仕組まれたモノなので効果は自由自在。

そして地球から邪魔な人間を追い出した裏から地球を牛耳っている真の支配者連中は地球に残り快適な生活を謳歌するのだ。

それも大きなお屋敷に住むとか、未来都市みたいなモノでは無く大自然の中の品の良い別荘的な感じの家で馬等で移動しているという贅沢感こそが新たなる格差社会の映像ではないだろうか。

絵的にはピカピカで白いハイテクな街とスラム化した町並みというのは分かり易いけど何かが違う感じがする、現実社会はお屋敷を作るではないかとかいうけれど、下賤な人間がいなくなれば地球自体がそのお屋敷だという考えになるのではないだろうか、誇示する相手がいない訳だからプライベートサイズで快適な所で生活するのではないだろうか。
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2014年08月05日

ウォーム・ボディーズ

ゾンビと人のラブロマンス映画、「ゾンビヘッズ」とはチョイと切り口も着地点も違う。

ゾンビが愛の力で人間に戻るという感じの映画です、ゾンビから人間に戻っていくのが新機軸、またゾンビのなれの果てのガイコツという概念も多のゾンビとはちがう感じ。

この構造が新しい風刺を描いているのだと思う、まぁそれはコレまでのゾンビ映画に毒されたスレたモノの見方かもね、それにコレまでのゾンビ映画の大半は風刺性もないただのアクション映画だったり、パニック映画だったりスプラッターだったりと単なるそういう現象に過ぎなかったりするからね。

だからコレもロミオとジュリエットの障壁としてのゾンビという現象という役割しか無いのかもしれないけどね。

ゾンビも元人間、救ってやらねばという感じが気になり出すと何かチョイとイラッという感じするし、自分を見失って無為に日々を過ごす者はゾンビだという感じにとっても何かイラッとする。

ゾンビ化した人が社会の害悪みたいな感じに捕らえていくとゾンビ化とは何をイメージしているのかという事が気になりだす、単純な日々のルーチンワーで食べる為の生活をしているのは人間では無い、でも彼等にもささやかな幸せはある、一応人間的生活をしようとしているというという感じだとかなりイラッとする。

最底辺に落ち込み害にしかならない者は処分しても仕方ないというような感じがねぇ。

変な深読みをすると何かこの上から目線感が気持ち悪いのである、でも深読みせずに気楽に観ると何かほのぼのとしたチョイと良い話という感じで自分の中に葛藤があるのだ、その微妙な感じがこの映画の自分の中での評価に影響を与えている。

非常にモヤモヤした感じが残るのである。
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2014年08月04日

エリジウム

貧民と宇宙に住む自称エリート達との戦い。

自分の命を救いたい暴れん坊と、支配権を奪いたいエリート、社会の仕組みを変えたい反乱組織、単なる暴力と力を欲するクソ野郎が織りなす戦い絵巻。

スケールは非常に小さい感じ、単なる小競り合いで世界が変わるという状態の為に微妙にカタルシスはない、タナボタな展開過ぎるのだ。

主人公を阻止するのもなんか単なるチンピラだし、エリート達の組織感にもスケールが無いのだ、反乱組織にしても人数感もないのだ、兎に角人数感、社会の大きさ感が全く感じられないのだ。

荒廃した貧民街というのにしてもその街の息苦しさとかもないのだ、何だろうこの描き割り感という感じ。

ロケをすれば良いというモノではない、其処にいる生活感が足りないのだ日常の描写が足りないと僕は思う。また対比となる上の生活もあまりにも類型的というか単なる避暑地感、パーティ感でこれまた生活感を感じないのだ。

美術スタッフはリアリティのあるデザインをしていて良い仕事をしているとは思うのだがシナリオやそのデザインが存在する人々を描いてい無い為に空虚なのである。

退屈せずに観る事は出来たけど今ひとつ心に響かない、チョイと良い話的に犠牲になっても感動にならないのだ、生活感が無い為に貧しい生活といわれても今ひとつピンと来ないのだ。
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2014年08月03日

個性を伸ばす

個性を伸ばすとかいうけれど本当に個性って伸びるの?

始めから歪んでいる、ピークがある部分が個性ではないのか?生まれつきある特性だから伸びないのではないかと思う。

実際に行われているのはは個性に添った技術を伸ばすという程度のモノに過ぎない。

更にいうならば延ばすのではなく気付きを与えるというのが実情ではないだろうか、それにねぇそれを延ばす事が本当にその人にとって幸せかどうかという問題もある。

個性と才能は別物だからね、個性を伸ばしたからといって食っていけるかどうかもわからないし、拗らせて厨二病的になってしまい社会と折り合いがつかなくなってしまえば辛いのではないだろうか。

才能が無い場合にはねぇ個性なんかむしろ邪魔なのよ、変な拘りが無用の衝突を生み出してしまい、どちらも不幸になってしまうのだ。

いつの間にか育ち、どうしても滲み出て来るのが個性なのだ、兎に角伸ばしたりする様なモノではない。


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2014年08月02日

変節

考え方が変わったり、自分の想像していた思想と違う方向にいったりする事を無闇に変節したとして叩く一部のネット論壇、いや一ファンの人々。

本質の部分ではねぇ人はそう簡単に変わらないし、表層的な考えについては人は色々な知識等で考えを変えるし、状況が変われば意見が変わる事はあるのよ。

大体何時までも同じというのもねぇ進歩が無いという事かもしれないのよ、コロコロと意見が変わるというのは面倒臭いという感じもするけれどそれが常態化していればそういう人という事ですよ、むしろそういう人が急に考えを変えな無くなった時が変節です、まぁ屁理屈だけどね。

仕事等で絡んでいるとか、政治家が選挙後に意見を何の説明も無く変えるのであれば問題だと思うのだが、メディアやネット等で意見を変えた所でどれ程の実害を被るのか?

何故其処まで人の思想等に依存をしているのだろうかと思う、嗚呼変わったねぇ、何かピンと来なく無ったねぇという感じとか良いんじゃないのか?まぁムカついたらチョイと腐す程度で良いのではないのか。

他人の考えを自分の心の依り所にしすぎですよ、また自分を支持して欲しいと思いすぎです、発表する場所、機会が増えたからって別に人として立派になった訳でも面白い人になった訳でもないのよ、良い意見を言える訳でもない。

でもソコソコのアクセス数、信者とか、読者とかがつくと何かちゃんとした人だと思いがち、出版社も商売に成るから安易な本を出しがちなのよ、プチ知識人を作りすぎなのである。

それを安易に多様性とかいうのだろうけどね。

その安易な思想家モドキ、評論家モドキに自分を投影してどうするのよ、変わった、裏切られたといって何が変わるのよ、単に自分が変わらなかっただけなのかもしれないのにねぇ。
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2014年08月01日

人には暴走を防ぐ為にも鎖が必要である、今までは社会がその鎖の役目をしていたのだが、個人主義の蔓延がその鎖を錆び付かせている。

更に社会は鎖に縛られるなともいう、自由になれと良い人々を孤立させる。

でもねぇ人は其処まで自由を求めていない、様々なネットコミュニティがそれを表している、本当はもう少し濃密な関係性が欲しいのだけど、コレまでの社会観でそれを望むのが恥ずかしい気持ちになっており数でそれを埋めようとしているのだ。

多少小馬鹿にしているマイルドヤンキーに対して羨ましいという気持ちが隠れていると僕は考える、地元から離れたい、カッコイイ自分になりたいという部分と多少ダサくても安心出来る地元意識という部分でせめぎ合っているのだと考える。

社会が自立している、自分らしくというある種の嘘臭い自分を強要するから逆に素直になれない状況になっているのだ、更にネット等で別人格を構築しにっちもさっちもいかない状態に陥る現状なのだ。

此等もある種の鎖であるかもしれないけれど安心出来る鎖ではないのだ。

またこの鎖のなさが引き籠もりを生み出しているのでは無いだろうか?つなぎ止める社会の濃密さが無いから浮いてしまうのだ、その状況に堪えられない、人が自分に興味が無いという事に堪えられなって人目を避ける様に籠もってしまうのである。

濃密の鬱陶しい感じが嫌で切りまくり次の世代は孤独になる、教育もおかしな事になっているのが今なのでは無いだろうか。

何故バラブラにしたのか?それはモノを売る為だ、様々な詐欺を行い安くなるし、バラバラになればそれぞれでモノを持つ事になるし、過度な競争心を煽る事も可能になるだ、それを止める者がいないから暴走もするのである。

核家族になれば不動産価格も上がるし、食材等も多く売れるし電気も多く使う事になるのでは無いだろうか、使用量は変わらないとしても世帯数が増えれば基本料金がそれだけ増えるのだろう。

車とか家電も同じ、世帯数が増えれば全てそれだけ売れるのよ。

実際は個人の自由とかどうでも良いのよ、それこそが正しいと認識される事で人をバラバラにしたいだけなのよ、政治的にも誘導しやすくなるし、洗脳しやすくなるからね。

最終目標は国家解体、ナショナリストやパトリオットを差別主義とレッテルを貼ることで解体しようとしている、今のロシアとアメリカの戦いは多分ナショナリストと新自由主義の戦い。

でもねぇ新自由主義者を標榜はしていても此奴等も結局は自分の利益の為に結局は群れているけどね。

自分の意見を通す為に、評価されようとする為に群れているけどね、敵を作り一緒に馬鹿にする事で連帯意識を持ち心の隙間を埋めているのだ。

自分の意見に賛同してくれる人がそれなりにいると甘えの元に人を小馬鹿にしていたりするゲスなのよ、たった1人でも自分の考えを叫ぶ勇気も根性も無い。

何を言いたいのか良くわからない文書だけどそれぞれで解釈してね。
posted by mouth_of_madness at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする