2011年11月27日

何も見てません

色々な情報が飛び交う世界になった、ネットでは色々な映像を見る事が出来る世の中、テレビのニュース映像とは違う視点の映像もね。

色々観ているから何か世界を知った観ている様な錯覚に陥る人もいるだろう。多数の視点から物事を見る事で真実に近づくと思う人もいるだろう。

しかし本当にそうなのだろうか?映像は事実を映し出しているのだろうか?

映像を撮る時点で作為が入っているのだ、その様な映像が沢山あった所で何か真実をつかむ事が出来るのか?疑問である。

何か凄い事が起きている時にその凄い事以外をとり続けているとかはまず無いはずだ。偶然撮っていたとかいう断片的なモノは有るかもしれないけどね。またもっとアップで押さえていたら良かったという事もあり得るだろう。しかし撮っている段階では其処まで見通す事は出来ない。全ての情報がその時点で押さえられた訳では無いのである。複数のカメラがあってもみんな同じ所に注視していたら多少の切り口、アングルの違いがあったとしても大きな成果は出ないと思う。

違う視点のカメラが押さえれば大丈夫?いやその違う視点という部分でカメラに先入観が入りこれまた上手く行かないのである。作為的に撮ってしまうのだ。もう其処には事実を撮っているというより演出の入った映像になり見る人を誘導してしまうのである。

また人間の脳は非常に問題がある。映像を見る時に注視点を作ってしまい写っていても見落とすモノが多いのである。そしてその注視点はキャプションやコメント等を見てしまうとその呪縛に縛られてしまうのだ。同じ映像でも見る前の先入観でその映像からくみ取る意味が変わってしまうのだ。1度それで強力な先入観が入ってしまうと別の視点、別の意味合いの映像を見てもインチキに見えたり偏向報道していると思って見てしまいがちなのである。

車の運転している時とかに全ての視覚情報を処理していたら大変な事になるのだ、フィルタリングされるから車の運転が出来るのである。事故った場合には通常より多くの情報処理が行われ色々なモノがスローに感じる様な面白い状態になるけどね。

映像を観ても必要な情報をフィルタリングして見ているから色々な映像が有ったとしても偏って処理されてしまうのである。

その様な事を考えていると人間は何も見ていない、いや見てはいても捨てられている情報が多すぎるのである。また脳が勝手に映像に意味づけをし自分の脳内世界を構築しすぎているのである。

自分が友達とか思っている人の人物像は貴方が見た相手の一部の情報を脳内で構築したヴァーチャルな存在でしかない。見えていない部分、見ていない部分はその人格には反映さえていない似て非なる人物なのだ。貴方の友人はその友人を知っている人の数だけヴァーチャルな人格の人間として存在しているのである。まぁ本人も他人が自分をどう見ているのかで微妙なキャラの使い訳をしていたりもするだろうしね。

僕達は観たいモノだけを観たい状態で観ようとしている明盲なのである。
posted by mouth_of_madness at 15:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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