2013年02月17日

人の価値感

グローバル社会だの、ヨーロッパでは、世界の標準では(といっても中東やアフリカとかは入っていなかったりする)、アジア諸国(主に韓国、中国)ではといった自分の言論が世界的広がり、世界基準であるという事にしようという思惑で付けられる此等の言葉。

でも此等の他人の価値観で物事を見る人間は信用できない、世界の流れが変わればコロッと自分の意見を変えてしまうのである。自分の価値観が無いから話がドンドンとブレていくのである。

それにこの世界がこうだから日本もそうすべきだという事が本当に正しい事なのか?

多数が認めているから間違いという事も無いだろう、偶々間違っても多数の方だから仕方ないという逃げを感じるのである。

確かに少数の意見は不安だとは思うけどね。

世界は多種多様な価値観で動いているのだ、ある価値観では正しくても別の価値観では正しく無いという事もあるのだ。

利子の考え方にしてもイスラム圏と他の文化圏では違うのである。それを無理矢理に世界標準にしてしまえとすれば色々と文化、風習と合わず問題が起きてしまうのである。

多数に染めてしまうのは効率が良いのかもしれないが面白みに欠けるし、其処になじめないモノを排除すると論理はどうにも日々の生活の緊張感が高過ぎるのである。

日々自分が少数派になるのではないかとね。

別の考えをもったら排除されるとなれば、考えるのは自由でも其処には思想信条の自由はないのである。少数派の意見は無視されていくのであれば考えるのが無駄になっていき次第にモノを考えなくなるのである。

極一部の強靱な精神、自由な心を持つ者がいてもそれは多数の波に埋もれていくのだ。賛同する者がいなければその考えを発展させたり出来ないからね。

色々な考えが縦横無尽に組み合わさり強靱さを増していく、カラフルな世の中を作るのだ。間違った場合にプランが一つしかないとか失敗の場合の危険性がトンデモ無い事になるのだ。

世界がどうのより自分の考えが正しいか否かが大事なのだ、調和を目指すにも程々にである。
posted by mouth_of_madness at 18:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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