2013年02月18日

殺したくない・殺されたくない

国防軍に反対のデモ。

まぁそれは人それぞれの考えだから別に良い、でも「殺したくない、殺されたくない」という部分に違和感を覚える。

殺したくないは自分の行動だからそういう意志を持てばいい、だが殺されたくないに関しては自分の意志だけではどうにもならないのである。

戦争は一つの国で行う訳では無いのだ。

国防軍を持つと殺されるのか?

国防軍を持つと戦争になるのか?

九条があれば戦争にならないのか?

軍隊を持っているが戦争していない国はあるし、戦争をしていないから殺されてもいない、また9条が無くても戦争になっていない国も多い筈だ。

戦争を放棄すれば殺される事から抜け出す事が出来るのか?手を上げる、白旗を揚げれば命は無事なのか?それは有り得ない、人間は度々狂気に走るのである。

話せばわかるといって殺された政治家もいる、其処まで人は理性的ではないのだ。

また軍隊があろうが無かろうが戦争のまねごとは出来るのだ殺し合いは出来るのだ、命の危険を感じたら身を守る為に何でもするのが人間である。

戦争というと侵略する事だ思い込み過ぎ、侵略される事で起きる戦争もあるのである。


何を言いたいかというと殺されようが、殺しはしないという覚悟にして下さいと思うのである。

自国の憲法で他国まで縛ることが出来るという甘い考えは捨ててくれ、その上で世界がこんなに馬鹿ならばもう滅びてしまおうという覚悟の元に理念を叫べと思うのだ。
posted by mouth_of_madness at 21:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ひと・人により意見は違う。
だから、社会のことは政治的に決めなくてはならない。
議場では、誰かが相手に意見を譲ることが前提になる。
この場合、小異を捨てて大同につく。
無哲学・能天気では、大同はない。
大同がなければ、小異にこだわらざるを得ない。
小異は山ほどある。‘議論は、まだまだ尽くされていない’ ということになる。
政治家は、結党と解党を繰り返して、離合集散を本分のようにしている。
政治哲学の無いところに、政治音痴は存在する。温故知新が必要である。
国民に‘我々は何処から来たか。我々は何者であるか。我々は何処に行くか。’ を考える習慣がないと、政治は迷走する。

所詮、この世は仮の世。真っ当な世の中はこの世の外にある。
住み慣れたこの世に別れを告げて、まったく新しい来世に暮らすことになったら、あなたはどのような世の中の到来を望むか。
ひたすら、現世の普遍を願うのか。予定通り年中行事を繰り返し、何の変化もなければ天下泰平の世の中と言うことになる。
それでは、我が国は世界に取り残されてしまう。あなた自身に世界観はあるのか。
いつまでも、泰平の世の中に住む能天気の日本人ではいられない。
アングロ・サクソンの哲学から次々と繰り出されてくる現実対応策に翻弄されることになる。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/
Posted by noga at 2013年02月19日 06:03
どうもです。

また自分の思考の流れと飛躍の仕方の範疇と違う角度からのコメントでどう返して良いのかわかりません。

すいませんです。
Posted by 管理人 at 2013年03月21日 01:14
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック