2013年02月23日

同じではない

教育の体罰問題をみて思う。

教育を評論する人達は子供を見ているのだろうか?見ているとは口では言うだろう。だがそれぞれの顔を見ている様には僕には思えないのである。

そして自分の子供の時を忘れていると思うのだ。いやきっと忘れていると言うのは僕の思い込みだろう、教育評論なんかする者は子供の時から良い教育環境で育ったりしていて子供の時から悪意とかと無縁だったのだろう。そして良い学校に行き学友もそれなりの教育を受けた者に囲まれて育ったのだろう。

だから色々な子供がいる事を知らない、暴走する子供を知らないのだ。色々と個性がある子供が存在する事を言葉では理解していても心では理解していないのだ。

丁寧に話せばわかるというレベルに全ての子供がいる訳ではないのである。日中韓のこじれまくった状況をみても何年話しても解決しないではないか、国内だけでも一致をみないというのをみても難しい事であると理解出来る筈なのだが。大人でそうなのだ子供なんか更に大変という事を理解しろと思うのだ。

子供が本当に理解しているのかも当てにならない、理解した振りをすればこの場を逃れる事が出来ると悪意を持って対応する、それ位に短絡的な打算ををするのが子供だ。

今も体罰禁止の方に世の中が流れていくのをみて、それを利用し教師をいたぶるのが子供なのだ。それ位に悪意がある子供がいるのだ。

それは躾が出来ていないからとでも言うのだろうか?確かにその面はあるとは思うけど。そんな者を学校だけで何とか出来るモノではないのだ。

他の子供の事を考えるとその被害、影響を防ぐ為にも直ぐに何かを実行する必要があるのである。待ったなしの状態なのである。

その事を忘れて机上の空論に時間を費やす愚。

子供を人間に出来なければこの社会的には負けなのだ、壊れた子供が増えれば増える程社会は壊れていく、壊れた子供が更に大人になり子供を教育し拡大再生産化していく。

多分今の体罰問題、何処かで大人の人間を作り損ねた事に起因する、モンスターペアレントやキレやすい老人とか様々な問題のある大人が溢れている、一部の問題教師もそうだ人間になり損なったのだ。人間になり損なった者が子供を作り教育なんて出来る訳は無いのだ。

またこの体罰問題と死刑制度は同じ様な気がする、全て人は言葉を尽くせば理解出来るという考えが根っ子にあるのだ。其処に人権という都合のいい言葉で包んでしまえば思考停止してしまう。

子供に教育出来る時間は限られている、色々と議論を尽くしている暇は無いのだ。

子供は色々といる、それに併せて色々な指導方法が存在する、その中の一つが体罰であるだけだ。問題があるとすれば体罰が問題ではなくそれを行う教師の方に問題があるのだ、生徒により指導方法を使い分けるだけの技量が無いからなのだ。
posted by mouth_of_madness at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック