何かを観て思った事とかをネットで検索すると大体同じ様な人がいる、また他人の意見に耳を傾けても嗚呼それ2,3日前にネットで観たという様な意見が大半である。
またある記事に関するレスとかを眺めていても文章の違いはあっても意見は集約されていて山程のレスがあってもそれを分別していけば二桁以上に別れることは少ないと思う。
極端に言えば賛成、反対、どちらともいえないという3通りという位に集約される。
確かに考えているのかもしれないが入って来る情報等により考えが誘導されているのではないかという気がするのだ。
本当にその様な状態で人は考えていると言えるのだろうか?
かっては新聞や本がそれらの情報源だった、そして新たにネットという情報が加わった訳だが状況が改善している訳ではない、何も変わっていないとも言える状況だと僕は思う。
情報を鵜呑みにする僕が何か言うのに何の説得力もないのだけど、鵜呑みにしない人もその様な結論を出すように誘導されていないですか?あまりにも何処かで観た様な、驚きも新しい知見もない様な言説の氾濫にビックリする、プチ人気者のKAZUYAとかペラ過ぎて何でコレが話題になるのとすら思ってしまう。
まぁでも実際は人は考えても大した答えを出せる能力がないのかもしれないね、
だからこそ色々な何でという様な詐欺事件が起きるし、手品やメンタリストといった心理誘導に騙されてしまうし、経済問題も中々解決出来ないし、様々国際問題等も打算で放置してしまう、おかしな犯罪起こしたり、感情で暴走したりするのだ。
人は感情やそれまでの人生で培った道徳感で情報を判断し答えを出してしまうのだ、情報をニュートラルに分析出来ないのである、そしてコレまで培った道徳姦とかにしてもマスコミ等により培ったモノであり、自分達で考え築き上げたモノではないのだ、ある種のプログラムの条件式が頭の中にあり、情報が入ればその答えが出るようになっているのだ。
それはもう考えているといえない状態なのではないだろうか。
そう考える人は色々な事をもう少し忘れるべきではないのか?判断ルーチンを壊すべきななのだ、反射的に答えを出すべきではないのである、非常に難しいけどね。
色々な条件式を一から作り直すのは非常に手間がかかるけどね、だが考えるとはその行為ではないのかこのプログラムは新しい状況、情報に対応出来るのか、別のプログラムで動かした場合には違う事答えが出ている、このプログラムは本当に正しく動作しているのかを常に考える、その行為をもっと行うべきなのだ。
情報を入れて出た答えを正解と思っていては駄目、それを考えた結果と安易に思っては駄目。
自分の誤動作を疑え!!
反射神経とその場の思いつきでブログを書いているのは僕です。
2014年08月18日
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