新自由主義的思考の裏にある歴史の否定、積み上げた英智の否定。
それとも人間は十分に賢くなったから、今の人間ならば十分に自己判断行動で全てが最適に動くようになるというのだろうか?
そしてこの最適というのが本当にベストな状態なのだろうか?初期のピラミッドはもっと急角度の尖ったピラミッドだったけど、そのノウハウとかが伝承されず後期のピラミッドは砂とかを上からハラハラと落とし砂山を作った時の角度なってしまったという話もある、物理的に自然にならした形確かに安定しているかもしれないがこれが本当に最適なのか?それならば現時の高層建築とかは最適ではないという事にならないだろうか?
英智を積み上げ作れる様になったモノを否定し、自然に任す的な事は逃げではないのか?
僕は人が最適な価値判断が出来るとは思えない、少なくとも現時点で僕はその価値観を持ち合わせてはいない、今売られているモノの価格なんてそういうモノだからという認識で受け入れている、自分の懐と優先順位で買う買わないという認識だ、懐具合で高いと安易な価値判断をしているのだ。
あくまで過去からの敬意の値付けに流されているだけなのだ。
でもねぇこの状況はある程度考えられたモノであると思うけど、最近はそれがチョイと壊れつつ有ると思う、過剰に高かったり、過剰に安かったりする感じ、中間が減っている、玉子が先か鶏が先かという考えもあるが、一億総中流が壊れた事とリンクしている。
何も考えずに社会の仕組みを壊した結果だと思う。
新自由主義は、道徳や法律からも自由になろうと企む。多分一般的に考えられているであろう人間性からも逸脱しようと企んでいる。
でも結局はこれまでの仕組みで作られた人間の成功者としての檻に閉じ込められているのだけどね、パラメーターの一つである数値に翻弄されているのだ。
ふと考えるこの人達は自殺したいとか、スリルフェチとかなのかも、何時自分が谷底に落ちるか、成功して他人を蹴落とすかという博打が大好きな人達なのかもね、でもそれに他人を巻き込むなよ。
2014年10月13日
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