知識が溜まってくると人は馬鹿になりがちである、何で?
論理的に考えているつもりでも知識の檻に囚われ考えを狭めてしまう、論理的に考えていくと自分の知識に反した答えになる場合に誤動作してしまうのだ。
困った事に自分の知識に自信を持ちすぎてしまい自己否定が上手く出来ないのだ。
知識がないと思っているうちは素直にそれを受け入れる事が出来るのだが、知識が貯まりある種の理屈体系が出来ると上手くなじめなくなってしまうのである。
作り上げた体系を過信してしまうのである。
テレビ等に出て来る経済学者や評論家、論説員とかの話が噛み合わないのもそうだし、慰安婦問題、尖閣問題に関しても自分の考えこそが正しく、他の連中は知識が足りない、勉強が足りないという自己の中で答えが出てしまい他者を愚者だと思い込んでしまうのだ。
お互い馬鹿の合わせ鏡になってしまうのだ。
新しい知見を、他の人が信じる知見を理解出来なくなった時に人は馬鹿になる、思考が硬化して新しい事、違う事を吸収出来なくなり時代に取り残されるのだ。
だが困った事に過去の仕事によりある種の名声や箔があぅたりする事により発言にそれなりの力があり場を混乱させてしまうし、自分がついていけていない事に気がついてい無い為に頓珍漢な事をいってしまうのだ。
しかし若い奴、色々な考えに柔軟な対応が出来ている状態が賢いかというとそれもまたビミョー、単純に知識がなかったりするからね。
そう考えると人は馬鹿から抜け出せない、素直に馬鹿を受け入れるしかないのだと思う、成長する事で一瞬の煌めきはあるのかもしれないけれど人は馬鹿の坩堝に逆戻りする、戻っている事に気がつくべきなのだけどそれは中々難しいのよね。
2014年10月14日
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