人は色々な概念を言葉にしようとする、言葉にする事である種の知識共有をする事が可能になりそれなりに文明を築いて来たとは思うし、そういう認識をしている人が多いと思う。
だが本当にそうなのだろうか?
概念を言葉にした時点でそれに囚われ自由な発想が出来なくなっていないだろうか?意思の疎通とか情報の共有のメリットはあるのだが言葉に縛られるデメリットにより後一歩先に進めないのである。
中途半端な言葉により生きるとは何か?人生とは何か?、国とは何か?といった本当に考える必要があるのかといった余計な事を考え概念の雁字搦めに翻弄され続ける。
多分音楽とかもそう楽器等の音階とか楽典とか理論等により音楽の自由性を損なってはいないだろうか?もっと気持ちの良い音の追求が阻害されてはいないだろうか?
言葉がなく概念がなく、その都度色々な事を考える、心の湧いたモノを素直に表現する、それこそが世界を感情を正しく表現する。
犬はワンワン、ネコはニャーとかいう言葉があるからそんな風に聞こえてしまっている、脳がそんな風に処理してしまう、絵を描く技術として、手を描いている、目を描いているといった感じで描くと駄目というのがあるのよ、単純に対象をシルエットで認識するという描き方をする事で正確に描くという訓練があるのよ。
概念がシルエットを正しく認識出来なくするという脳の不自由があるのよ、形を記憶する時にもそれは影響するのだ、単純に形で覚えるかパーツに分けて記憶するのかこれは後で再現する時に差が出てしまうのよ。
概念に引きずられる脳の影響を甘く見てはいけないのだ。
2014年10月16日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック