天才の発明、発見、アイデアで世界が変革していると思っている人は多いだろう。
だからこそ天才は凄い、評価されるべきと思いがちになる、でもねぇ実際は違う、切っ掛けを作ってはいるかもしれないし、10年とか時計を進める事に荷担、意識の引き上げしている部分はあるかもしれないが実際の世界は凡庸な人間達が動かしているのだ。
また秀才とかが天才のサポートをする事で世界は成立しているのだ、天才だけではどうにもならないのだ。
どうにも世界は天才を過大評価しすぎである。
天才の考えを理解出来る土壌、天才が思索に耽る土壌があってこそ天才は成立するのである。
チンパンジーに相対論を教えても理解は出来ないのである、モーツアルトは心地良く思うかもしれないけれど。
また食うに困っている状況、戦火に包まれいる状況ではIpadとかも生まれない筈だ。
それらを生み出す土壌があってこそ天才も芽が出るのである、種だけでは意味が無いそれが育つ肥料や土があってこそなのだ。
凄い発明がある、だがそれらの性能を地道に上げ、価格を下げ、使い勝手を良くし、面白がり、運用していく、それらを行う秀才、凡才がいてこそ天才の偉業は磨かれていく、いなければ単なる突飛な発想で歴史に埋もれていくのだから。
どうにも天才の派手な部分にばかりに囚われその他の部分を人は蔑ろにしすぎである。
そして天才と思っている者が実は単なる秀才という勘違いもあるだろう、それにねぇ天才と言っても偉業をなす事は人生で一度という人も多いからね。
そう考える音楽で一発屋といわれる人々、チョイと馬鹿にされすぎだよね、一曲でも大ヒットがあるという事は凄い事だよね。
科学的偉業なんか一つでも出来れば天才の名を手に入れる事が可能だからね。
天才は世界を廻さない、廻す方向を、タイミングを与えるだけだ、廻す原動力は凡庸の中にあるのだ。
2014年10月29日
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